連載小説『為替の正体』· 第六弾 五兆ドルの山 燃えると分かっている山の川に、部屋は降り方を決めて乗る。全員が天才になる秋、五兆ドルの絶頂、そして完璧な決算の翌日に入った最初の亀裂——疑っていた者が全員買った市場で、魔女の早すぎる弱気だけが、答え合わせを待っている。
第一弾〜第五弾の続き。関税ショックの灰が落ち着いた夏から、天才たちの秋、そして五兆ドルの絶頂へ。 燃えると分かっている山に、規律の部屋はどう乗り、どう降りるのか。完璧な決算の翌日に入った最初の亀裂——第5部・全10節。
第49節|合意の夏
二年目の夏は手紙で始まった。
連載の一回目が載った朝、わたしは駅の売店で自分の新聞を買った。めくると、そこにあった。遅れて届く手紙、という題字と、わたしの名前。一回目に書いたのは、富岡さんのことでも、四月の崖のことでもなかった。去年の七月の話を書いた。百六十一円の夏。介入の夜。養分、という言葉が飛び交っていた頃の話。そして、その夏に大きく張っていた一人の男の話。名前は伏せた。わたしの父だということも、書かなかった。ただ、最後の一行にだけ、こう書いた。この連載はあの夏に間に合わなかった手紙をこれから先の誰かに宛てて、書き直すものです。
松子は校正刷りを戻しながら、一言だけ言った。
「湿っぽくない。合格だ」
読まれない、という彼女の予言は半分だけ、当たった。連載の反響は数字で見れば、小さかった。けれど、届く場所には、届いた。掲載から一週間のあいだに編集部気付で、手紙が数通来た。読者からの手紙がいちばん多い連載ではなかった。ただ、手紙をくれる読者の書く分量がどの連載よりも、多かった。みんな、何かを抱えている人たちだった。
その中に一通、わたしを長く立ち止まらせるものがあった。
丁寧な字で、こう書いてあった。〈わたしはいま、AIの株に退職金の半分を入れています。周りは、みんな、まだ上がると言います。わたしも、そう思います。でも、あなたの記事の理科の先生のことが、頭から離れません。──降り方を教えていただけませんか〉
降り方を教えてください。──わたしはその手紙に返事を書けなかった。記者は助言をしない。それは、守らなければならない線だった。松子にも、連載を始めるとき、釘を刺されていた。あんたの連載は助言はしない、数えるだけだ、それが守れないなら畳む、と。──でも、その夜、わたしは机の抽斗の飴を見ながら、思っていた。降り方を訊く人が現れ始めた。まだ、山は上り坂の途中なのに。人は登りながら、もう降り方の不安を抱え始めていた。
* * *
七月の下旬、海の向こうと、この国が握手をした。
合意、という見出しが、朝の紙面に躍った。四月にこの国へ突きつけられた関税は二十五パーセントの手紙を経て、最終的に十五パーセントで決着した。車も、部品も、十五。引き換えにこの国は五千五百億ドルという、途方もない額の対米投資を約束した。
株は跳ねた。とくに車の会社の株がその日、大きく買われた。為替は少し円が買われて、すぐ元の場所に戻った。百四十六円と百四十八円のあいだ。夏のドル円はもうめったなことでは、驚かなくなっていた。
「十五パーセント、か」ケニーが紙面を眺めて言った。「四月を思い出せよ、七瀬さん。世界の終わりみたいな顔で、全員が画面に張りついてた。株も債券もドルも、いっぺんに売られてな。──あれから四か月だ。世界の終わりは、交渉されて、値切られて、十五パーセントっていう値札になった。で、株は上がって、みんな、もう次の話をしてる」
「それって、良かった、ってことですか」わたしは訊いた。
「さあな」ケニーは言った。「言えるのは、一つだけだ。人間ってのは、どんな異常事態でも、九十日ありゃ、慣れる。関税ってのは、要するに世界中への増税だ。その増税がいま、史上ないスピードで進んでる。なのに誰も、もう騒がん。四月に騒ぎすぎて、騒ぐ体力が尽きたのかもな。──慣れ、ってのはな、七瀬さん。相場でいちばん静かで、いちばんでかい材料だ。全員が慣れ切った頃に請求書が届く。いつもそうだ」
八月に入って、各国への新しい関税がまとめて発効した。平均して、およそ十八パーセント。世界の貿易に戦前以来と言われる高さの壁が正式に据え付けられた日だった。──その日の市場は静かだった。ニュースの扱いも、小さかった。四月に地図を燃やした火は夏には、店先の値札になって、風景に溶けていた。
わたしはその静けさを連載の二回目に書いた。見出しは、「慣れる、ということ」。世界の終わりと呼ばれたものが、九十日で風景になる。だとすれば、いま、わたしたちが風景だと思って見過ごしているものの中に次の世界の終わりの種がまぎれているのではないか。──書きながら、わたしの頭にあったのは、関税ではなかった。あの雲一つない、四兆ドルの山だった。
* * *
政治にも、その夏、隙間風が吹いていた。
夏の選挙で、与党が大きく議席を減らしたのだ。物価と、実質賃金と、その他いろいろの不満が投票箱に流れ込んだ。政権の足元がぐらついた。海の向こうとの関税交渉をまとめ上げた政権がその足元では、退場を囁かれている。政治の季節が秋に向かって、動き始めていた。
「政治は見ておいてください」ダリがめずらしく、自分からその話題に触れた。「相場にとって、この国の政治は長いあいだ、材料ですらなかった。誰がやっても、同じだったから。──でも、次は違うかもしれない。財布の紐と、金利への態度がまるで違う人たちが、次の席を争っている。秋にこの国の政治が動いたら、円はたぶん無風では済みません」
わたしはそれを手帳に書いた。秋、政治、円。──そのメモが何を意味するのかをわたしが本当に理解するのは、十月になってからだった。
* * *
そして、八月の戦時室で、登山会議が開かれた。
招集したのは、ケニーだった。議題は一つ。後半戦をどう戦うか。ホワイトボードの前にダリが立った。隅には、七月に描いた、あの山の図がまだ残っていた。断層の横線ごと。
「宿題の続きです」ダリは言った。「結論から言います。登ります。ただし、登り方と、降り方を先に決めてから」
彼女は山の図の隣に矢印を何本か描いた。
「まず、わたしたちは山そのものには、触りません」ダリは言った。「AIの株を買いには行かない。わたしたちは為替の人間です。株の山の高さを当てる勝負はしない。わたしたちが取るのは、山ではなくて、山に向かって流れる、お金の川のほうです」
「川?」わたしは思わず聞き返した。
「世界中のお金があの山に登ろうとしています」ダリは言った。「アメリカのAIに投資するには、ドルが要る。この国からも、貯蓄が投資の口座を通って、海の向こうの株に流れ続けている。毎月、給料日のあとに機械的に。円を売って、ドルを買って、山に登る。──つまり、山が育つあいだ、円は構造的に売られ続ける。ドルの大陸への信用は低くなったままです。それでも、山はドルの上に立っている。山に登る金はドルの信用を問わない。山しか、見ていないから。……皮肉な話です。例外の終わり、と言われた国の通貨がバブルのおかげで、また買われる」
「だから、ドル円の上りを取る」ケニーが言った。「円を売る側で」
「はい」ダリは頷いた。「型は去年の秋と同じです。トレンドに規律で乗る。天井で飛びつかず、押し目で拾って、決めた線で守る。新しいことは、何もしません。新しいことをする相場では、ないので。──ただし、去年と、一つだけ、違うことがあります」
彼女は山の裾の断層の横線を指した。
「去年の秋、わたしはトレンドの先に崖があるとは思っていませんでした。今度は思っています。この山はいつか燃える。それを分かった上で、その山に向かう川に乗る。──だから、降り方を先に決めます」
ダリの降りるための目印は三つあった。彼女はそれを断層監視、と呼んだ。一つ。山の会社たちのお金の回り方。AIの会社がAIの会社に出資して、そのお金でまた、AIの会社から買い物をする。お金が外から入らずに内側で回り始めたら、山は自分の重さで育っている。二つ。悪い報せへの値段の反応。いい報せで上がるのは、健康。悪い報せでも上がるのは、熱狂。悪い報せで、上がらなくなった日が変わり目。三つ。円の振る舞い。世界が本当に怖がった日に円が買われるかどうか。円がもう逃げ場でないなら、逃げ場のない世界がまた来たとき、動きは、四月より、速い。
「この三つを毎週、見ます」ダリは言った。「どれかが折れたら、川から、上がる。数字が足りていても、足りていなくても。──それが、条件です。この条件を部屋として、いま、飲んでください。山の途中で議論を始めたら、たぶん降りられなくなるので」
ソープが静かに口を開いた。
「サイズの話をしておく」彼は言った。「この計画で、私たちが張れる大きさは、最悪の朝を前提に決める。ある朝、山のどこかが崩れて、川が逆流して、ドル円が窓を開けて落ちる。その朝に死なない大きさ。──計算した。その大きさで、この川が年末まで流れ続けて、押し目もきれいに拾えて、それで、届く数字は──」彼は数字を言った。「約束には、届くか届かないか、際どい。正直に言えば、運の風向き次第だ」
「運も、装備のうちだ」ケニーが言った。それから、部屋をゆっくり見回した。「──よし。登るぞ。ダリの三つの目印と、ソープのサイズで。ジョーンズ、お前の機械はどうだ」
「川の流れは、機械にも見えています」ジョーンズが言った。「円が売られる日の形。押し目の深さの癖。夏のあいだにだいぶ覚えさせました。──四月に真っ白になった機械がまた地面を掴み始めています。ただ」彼は少しだけ、言葉を選んだ。「機械が覚えたのは、いまの世界の相性です。ダリの言う、断層が動いた日には、この相性はまた一晩で嘘になる。そのときは、機械を信じないで、降りてください。僕がいちばん先にそう言います」
四月にエッジがないと自分が何なのか分からない、と言った男が自分の機械を信じるな、と言えるようになっていた。わたしはそれをこの部屋のこの一年でいちばん静かな成長として、手帳に書いた。
* * *
会議のあと、わたしは窓辺のダリに訊いた。
「燃えると思っている山の川に乗るのって」わたしは言った。「苦しくないですか」
ダリは少しのあいだ、窓の外を見ていた。夏の夕方の空はまだ明るかった。
「苦しいですよ」彼女はあっさり言った。「でも、記者さん。相場の仕事は正しい世界に賭けることじゃないんです。ある世界に賭けることです。わたしはこの山はいつか燃えると思っている。同時に燃えるまでのあいだ、育ち続けるとも思っている。矛盾じゃありません。時間の話です。──いちばんいけないのは、燃えると思っているから、と言って、川に背を向けて、痩せ我慢をすることです。それは、正しさに殉じているようで、ただ約束を破っているだけ。わたしたちには、約束がある。だから、登ります。目印を三つ、握りしめて」
彼女はそこで、少しだけ、笑った。疲れの混ざった、でも、ちゃんとした笑いだった。
「それに」ダリは言った。「降り方を決めて登る登山はそんなに悪いものじゃないんですよ。いちばん怖いのは、降り方を考えたことのない人たちと、同じ斜面にいることのほうです」
わたしはあの手紙を思い出していた。降り方を教えていただけませんか。──あの読者にわたしは助言を書けない。でも、いつか、連載に書けることが、一つ、あるかもしれない。降り方を先に決めた人たちが、この夏、確かにいた、ということ。そして、降り方を訊きたくなったその感覚をどうか、手放さないでほしい、ということ。
* * *
八月の終わりの夜、わたしは帰り道に少しだけ遠回りをして、川沿いを歩いた。
本物の川だ。夏の夜のぬるい水の匂い。対岸の団地の灯り。──去年の今頃、わたしはこの街のどこかで、介入の号砲と、養分という言葉と、父の顔をぐるぐる考えながら、歩いていた。二年目の夏の議題はあの頃とは、ずいぶん遠いところに来ていた。十五パーセントの値札。五千五百億ドルの約束。そして、燃える予定の山への規律の登山。
スマートフォンが短く震えた。ヒナからだった。
〈直美、報告。例の止め方の話ね。うちの部署の子と、あと二人、他の支店の子で、月イチで勉強会やることにした。教材、あなたの連載、使っていい?〉
わたしは立ち止まって、返事を打った。使ってください。それから、少し考えて、書き足した。第一回のテーマは慣れる、ということ、がいいと思う。
川面に対岸の灯りが、揺れていた。山は海の向こうで、雲一つなく、育ち続けている。その山に向かって、世界中の川が静かに流れ込み始めている。わたしたちの部屋も、その川に規律の小さな舟を浮かべたところだった。──秋が来ようとしていた。全員が天才になる、あの長い秋が。
第50節|山の斜面
九月の空気は甘かった。
海の向こうの株価指数は最高値の更新を日常の挨拶のように繰り返していた。史上最高値、という言葉がニュースの見出しから、驚きを失っていった。毎週のように更新されるものを人は記録と呼ばなくなる。ただの天気になる。今日も晴れ。今日も最高値。──そういう九月だった。
SNSの空気も、変わっていた。四月の恐怖はもう遠い伝説だった。〈押し目待ちに押し目なし〉〈現金で持ってる方がリスク〉〈四月に買えなかった人、今度こそ乗り遅れないで〉。株の話題の温度が明らかに一段、上がっていた。去年の秋のトランプ・トレードの熱狂をわたしは思い出していた。あのときと、似ていた。ただ、一つだけ、違うことがある。あのときのわたしは熱狂を外から見ていた。今度はこの部屋も、川に舟を浮かべている。熱狂の中に規律の舟で、入っていく。その違いが、九月のわたしを少しだけ、落ち着かなくさせていた。
* * *
九月の半ば、海の向こうの中央銀行が利下げを再開した。
昨年の暮れ以来、九か月ぶりの利下げだった。関税の物価への影響を見極めるために止まっていた足が雇用の弱さを理由にまた動き出した。市場はその先にあと二回、三回の利下げを織り込み始めた。
教科書なら、こうなるはずだった。アメリカの金利が下がる。日本の金利は上がる方向にいる。金利の差が縮む。なら、ドルが売られて、円が買われる。──実際、利下げの日、ドル円はするりと落ちた。百四十五円台。九月の安値だった。教科書がまだ生きているように見えた。
三日で、全部、戻った。
百四十五円台は週の終わりには、百四十八円になっていた。金利差の縮小という、いちばん王道の円高材料がたった三日分の値動きしか、買えなかった。
「見てください」ジョーンズが自分の画面をわたしに向けた。「機械がこの戻りの形を当てました。利下げで円高に振れた日の翌日の戻りの癖。夏のあいだに覚えさせた、新しい相性の一つです。──去年までの機械なら、金利差縮小、円高継続、と読んで、逆に賭けていた。いまの機械はこう読みます。金利差の材料は三日ともたない。川のほうが、強い」
川のほうが、強い。──ダリが窓辺から、続けた。
「金利差はプロの理屈です。プロのお金は金利差で動く。でも、いまこの相場で、円を売っているいちばん大きな流れは、プロじゃありません。給料日のあとの積立です。この国の貯蓄が毎月、決まった日に機械的に円を売って、海の向こうの山に登っていく。あの流れは、金利を見ていない。景気も見ていない。何も見ていないんです。ただ、設定されているから、流れる。──金利差のような"考えるお金"が円を買っても、"考えないお金"の川が三日で飲み込む。それが、この夏から秋のドル円の正体です」
考えないお金の川。わたしは手帳に書いた。そして、その川の水の一滴一滴が誰かの給料であり、誰かの老後の設計であることも、書き添えた。川は悪意では流れていない。むしろ、まじめさで流れていた。まじめな人ほど、毎月、決まった額を山に運んでいた。
デスクの舟はその川に乗った。
百四十五円台の押し目を計画どおりに拾ったのだ。慌てず、飛びつかず、決めた深さまで引きつけて、決めた大きさだけ。そして、川が三日で流れを取り戻すと、舟は静かに進み始めた。九月の終わりには、百四十九円台。──後半戦の数字が初めて、まともに動き出した。
* * *
その頃、この国の政治が音を立てて動いた。
九月の頭、首相が退陣を表明したのだ。夏の選挙の大敗の遅れて届いた請求書だった。与党は次の顔を選ぶレースに入り、テレビは候補者の顔ぶれを連日、映し始めた。
そして、為替がそのレースを値付けし始めた。
財布の紐が固く、金利の正常化に理解のある候補の名前が優勢に報じられると、円が少し買われた。財政は積極的に金利は低いままにという候補の名前が優勢に報じられると、円が売られた。世論調査の数字と、党内の力学の観測記事で、ドル円が日に何十銭も動く。──政治が久しぶりに為替の材料に戻っていた。
「言ったとおりになってきました」ダリが言った。「秋、政治、円。──見ておいてください。次の首相が誰になるかで、円の秋の景色はまるで変わります。とくに積極財政と低金利の組み合わせが選ばれた場合。それは、山への川にもう一本、支流を足すことになる。政府が円の安さを事実上、容認する支流を」
「もし、そうなったら」わたしは訊いた。「ドル円は」
「上に走ります」ダリは短く言った。「そして、どこかで、当局の口と、正面からぶつかる。去年の介入の記憶は市場も当局も、忘れていないので。──秋の後半はたぶんその綱引きです」
* * *
勝ち始めた部屋はしかし、静かだった。
わたしはそれが、少し、意外だった。ヒナのメッセージを覚えていたからだ。人って、勝ってるとき、あんなに輝くんだね。──富岡さんは、勝っていたとき、支店で若返っていった。クマノフは勝つと、声が大きくなる。SNSの天才たちは、毎日、含み益の画像を貼る。それが、勝つ、ということの普通の顔だった。
この部屋は勝ち始めても、誰も、輝かなかった。
ケニーは毎朝、同じ時間に来て、玉の大きさを確認して、ダリの三つの目印の報告を聞いた。ジョーンズは機械の的中を自慢する代わりに外れた日の記録を丁寧に検死していた。ソープに至っては、九月の唯一の変化が週次の断層監視レポートを金曜の夕方に全員に配り始めたことだった。
その二週目のレポートで、ソープは一つの項目に初めて、黄色をつけた。
「目印の二つ目」彼は言った。「悪い報せへの値段の反応。──九月、山の会社たちに小さな悪い報せは、いくつかあった。データセンターの遅延。電力の契約の揉め事。どれも、株価は下げなかった。それどころか、いくつかは、上げた。悪い報せの日に上がる。まだ数は少ない。だが、これは、熱狂の初期症状だ。緑から、黄色に変える」
「降りるんですか」わたしは訊いた。
「まだだ」ソープは言った。「黄色は黄色だ。決めた条件は"悪い報せで上がらなくなった日"──つまり、熱狂のあとの冷めの初日だ。いまは、その手前の熱狂の入り口。川はこれから、いちばん速く流れる。──ただ、黄色が出たら、やることが一つある。降り方の練習だ。全部の玉を何分で畳めるか。誰がどの順番で、何を執行するか。避難訓練と同じだ。火事の前にしか、できない」
その週、部屋は本当に避難訓練をした。ある晴れた火曜の午後、ケニーの合図で、四人が持ち玉を全部畳む手順を実弾を使わずに通しで確認した。何分かかるか、ストップウォッチで測った。二回やった。二回目は一回目より、速かった。──世界でいちばん株の上がっている月に避難訓練をしている部屋をわたしは他に知らない。
* * *
金曜の夜、藤森さんの店に行くと、クマノフが新しいタブレットをカウンターに立てていた。
嫌な予感しか、しなかった。
「七瀬ちゃん! 聞いてくれ!」案の定だった。「俺、AI株、始めたんだ! いや、待て、何も言うな。今回はちゃんと勉強したんだ。いいか、今回はな、ドットコムの頃とは、違うんだ。あの頃の会社は夢しかなかった。今回は収益があるんだ。しゅうえき! 現物の利益! 世界でいちばん大きな会社がちゃんと、桁違いに儲かってる。つまりこれは、バブルじゃなくて、実力なんだ。PERで見れば、むしろ──」
「クマノフ」チカノフが静かにグラスを置いた。「いま、君はPERと言ったね」
「言った。それがどうした」
「諸君、記録したまえ」チカノフは天井を仰いだ。「クマノフが専門用語を使い始めた。──いいかね、クマノフ。君が感覚で買っているうちは、まだいい。君の間違いは、君一人の間違いだからだ。だが、君が理屈を覚えたときは、危ない。それは、君の理屈ではないからだ。誰かが、君に買わせるために磨き上げた理屈を君は自分の考えだと思って、暗唱している。──今回は収益がある。ドットコムとは違う。その台詞をね、クマノフ。今週、わたしはこの店で、君を含めて、四人から聞いた」
「べ、別にいいだろう、事実なんだから」
「事実だとも」チカノフは頷いた。「収益はある。それは、本当だ。だからこそ、たちが悪い。嘘のバブルは嘘がばれれば、終わる。本当のことが混ざったバブルは本当のことを旗にして育つ。旗が本物であるほど、行列は長くなる。──で、行列の最後尾で、旗を見上げて、いちばん高い入場料を払うのは、いつだって、君だ」
「うるさいな! 今回は違うんだ!」
店がどっと笑った。わたしも、笑った。笑いながら、背中の産毛が少しだけ、立っていた。今回は違う。──冬にブリンがAIの物語に全部張ったときの言葉。ケニーがいちばん高くつく四文字と呼んだ言葉。それがいま、専門用語と一緒に居酒屋のカウンターまで、降りてきていた。理屈は山の上で作られて、斜面を転がり落ちてくる。いちばん下で、それを受け取るのは、いつもクマノフたちだった。
藤森さんが、わたしのグラスにワインを注ぎながら、小さく言った。
「今夜の彼はまだ可愛いもんですよ」彼は言った。「今週はね、七瀬さん。うちの店に初めて来た若いお客さんが、二組、いましてね。二組とも、席につくなり、株の話でした。この店で、初対面の客同士がいきなり銘柄の話を始めるのは──前にもあったんですよ。ずっと前に。……ああいうのが増えると、わたしは日足のノートの端に小さく、印をつけるんです。何の印か、って? さあ。ただの年寄りの癖ですよ」
* * *
九月の最後の週、ドル円は百五十円をうかがう位置まで来ていた。
デスクの舟は川の上で、順調だった。数字は動き出していた。SNSの天才たちは、今夜も、含み益の画像を貼っていた。クマノフは収益、という言葉を覚えた。藤森さんは、ノートの端に印をつけた。ソープの週次レポートには、黄色が一つ、灯っている。そして、政治のレースは最終盤に入ろうとしていた。
わたしは連載の四回目に九月のことをこう書いた。
全員が勝っている相場では、誰も、自分の実力を測れない。上げ相場はすべての判断を正解にしてしまうからだ。買った人も正解、握った人も正解、理屈を暗唱しただけの人も正解。──実力と、追い風の区別がつくのは、風が止まった日だけだ。だから、いま、あなたの口座で増え続けている数字のうち、どこまでがあなたで、どこからが風なのか、風のあるうちに一度だけ、考えてみてほしい。
書き終えて、わたしは少しのあいだ、その文章を見ていた。これは、読者に宛てた手紙のかたちをした、自分への手紙でもあった。この部屋の数字も、いま、風に乗っている。降り方は決めてある。避難訓練も、した。それでも──風の中にいる限り、誰も、完全には、安全ではない。山の斜面は登るほどに美しくなっていった。そして、斜面の美しさは、高度の別名だった。
第51節|天才たちの秋
十月は土曜日に始まった。
与党の次の顔を選ぶ投票がその週末にあった。勝ったのは、積極財政と、低い金利をはっきりと口にしてきた候補だった。テレビが速報を打った。歴史的な選出、という言葉が画面に躍った。──そして、月曜の朝、為替の市場が開くと、ドル円は金曜の値段より、二円近く上に窓を開けて、始まった。
金曜に百四十七円台だった値段が百四十九円台で始まり、その日のうちに百五十円を越えていった。
「窓、ですね」わたしはモニターを見ながら言った。四月のあの十三時間の朝以来の大きな窓だった。ただ、あのときと、向きが逆だった。あのときは、恐怖の窓。今度のは──なんと呼べばいいのか、わたしには、すぐには、分からなかった。
「ご祝儀、と呼ぶ人が多いでしょうね」ダリが言った。「でも、中身はもっと即物的です。財布の紐がゆるくて、金利に慎重な政権が来る。なら、円の金利は上がりにくくなる。国債は増えやすくなる。──円を売る理由が政治から、正式に配給された。それだけの話です。市場はお祝いなんか、していません。値付けをしただけ」
彼女は九月にわたしの手帳に書かせた三つの言葉を覚えていた。秋、政治、円。──その伝票が月曜の朝、窓というかたちで、市場に届いたのだった。
その週、ドル円は百五十三円台まで、駆け上がった。夏のあいだ、あれほど固かった百五十円の天井が政治の一夜で、ただの通過点になった。デスクの舟は川の増水に乗って、静かに進んだ。数字がまた一段、動いた。──そして、月の後半、新しい首相が正式に指名された。この国で初めての女性の首相だった。歴史の教科書に載る日に為替の市場は歴史よりも、補正予算の規模の観測記事を熱心に値付けしていた。
* * *
十月の相場はすべてが、上を向いていた。
海の向こうでは、中央銀行が十月も利下げをした。株価指数は最高値を更新し続けた。この国の日経平均は政治の追い風も浴びて、十月の終わりに史上初めて、五万円の大台に乗せた。五万円。八月の崖で三万一千円台まで叩き落とされた数字が一年と少しで、そこまで来た。──そして、金も、上がり続けていた。十月、金は史上初めて、一トロイオンス四千ドルを超えた。株と、金が同時に史上最高値を更新していく。楽観の資産と、不安の資産が同じ月に同じ角度で買われていた。世界は浮かれながら、同じ手で、こっそり、お守りを買い増していた。
「これ、変じゃないですか」わたしはソープに訊いた。「株が最高値で、金も最高値って」
「変だ」ソープはあっさり言った。「そして、示唆的だ。金を買っているのは、株を知らない人間ではない。株で儲かっている、その同じ人間たちだ。彼らは、口では、強気を言う。手元では、誰の借金でもないものを積んでいる。──口と手が違うことを言い始めている。九月に言った、頭と体の話と、同じだ。こういうときは、手のほうを見ておくものだ」
そして、十月の終わり、山がまた一つ、記録を作った。
世界でいちばん大きな半導体の会社の時価総額が史上初めて、五兆ドルに乗ったのだ。
四兆ドルが七月。五兆ドルが十月。──一兆ドルを積み増すのにかかった時間は四か月だった。一兆ドルといえば、世界で二十番目くらいの国の経済の一年分に近い。それが、四か月で、一つの会社の値札に上乗せされた。
「速度の話をしましょう」ジョーンズがその日、ホワイトボードに簡単な階段の絵を描いた。「最初の一兆ドルにこの会社は二十年以上、かけています。最後の一兆ドルは四か月です。途中の段も、行きつ戻りつしながら、階段の一段はどんどん短くなってきた。──値段の高さそのものより、僕はこの短くなり方を見ています。一段が短くなり続ける階段は自然界には、あまりありません。あるとすれば、それは、雪だるまか、雪崩の途中です。どちらも、坂の上では、同じ形に見えます。……ただし」彼は正直に付け加えた。「どちらなのかが分かるのは、止まったときです。僕の機械にも、止まる日は分かりません」
* * *
その週のソープの金曜レポートで、目印の一つ目に黄色がついた。
お金の回り方。──ダリが断層監視の一番目に挙げた項目だった。彼女はホワイトボードの山の絵の横にいくつかの丸を描いて、矢印で繋いだ。
「十月に発表された、山の会社たちの提携を並べてみます」ダリは言った。「AIの頭脳を作る会社がAIを使う会社に巨額の出資をする。出資を受けた会社はそのお金で、出資してくれた会社から、半導体を何年分も、まとめて買う約束をする。別の会社はデータセンターを建てる会社に発注し、その会社はまた、同じ半導体を買う。──矢印をたどってください。お金が環になっています。外から新しく入ってくるお金と、環の中をぐるぐる回っているお金の区別が外からは、つきにくくなっている。売上の何割かは、自分が出資したお金が一周して、帰ってきたものです」
「それは、悪いことなんですか」わたしは訊いた。「昔の通信のバブルのときも、似たことがあったって、どこかで」
「読みましたね」ダリは少しだけ笑った。「そう。四半世紀前、通信の会社たちが、同じ環を作りました。機械を売る会社が買う会社にお金を貸して、そのお金で自社の機械を買わせた。環が回っているあいだ、全員の売上が実力以上に立派に見えた。──環そのものは、違法でも、嘘でもありません。ただ、環は一か所が止まると、全部が止まる。外から入るお金で育つ山は外のお金が細っても、ゆっくりしか萎まない。環で育つ山は環が切れた日に一斉に萎む。……だから、黄色です。まだ、環の外から、本物のお金も、たくさん入っている。利益も、本物が出ている。でも、環の比率が増え始めた。目印の一つ目、点灯です」
黄色が二つになった。悪い報せで上がる株と、環になり始めたお金。──緑と黄色だけの静かな信号の話なのにわたしはその金曜の夕方の部屋を妙に鮮明に覚えている。窓の外はきれいな秋晴れだった。
* * *
シームから、長いメッセージが来たのは、その頃だった。
〈お久しぶりです。うちの近況を。──全張りです。また〉
ヘリオスはAIの山にフルで乗っているという。株も、関連の債券も、そして、円売りも。冬のDeepSeekの前と、同じ配置。わたしはあの冬の夜のメッセージを思い出して、少し、身構えた。けれど、シームが書いてきたのは、あの冬とは、違う話だった。
〈でも、冬とは、違うんです〉彼は書いていた。〈冬のブリンさんは、物語を信じてました。安いAIはまがい物だ、物語は強い、って。信じてたから、下げても降りられなかった。──いまのブリンさんは、たぶんこの山の物語を一ミリも、信じてません。会議で、はっきり言ったんです。"これはバブルだ。だから乗る。バブルほど効率のいい相場はない。信じる必要はない。降り遅れなければいいだけだ"って。降りる線も、機械にあらかじめ入れてある。……信じずに乗る。降り方だけ決めて。──どこかで聞いた話だと思いませんか。おたくのデスクと、やってることが、形の上では、同じなんです。それが、僕はこの秋、いちばんこたえてます〉
わたしはその一通を長いこと、見ていた。
彼の言うとおりだった。燃えると思っている山の川に降り方を決めて、乗る。──ダリの登山計画と、ブリンの「バブルだから乗る」は、外から見れば、同じ形をしていた。違いは、どこにあるのか。あるとすれば、それは、玉の大きさと、降りたあとに何を思うかの中にしか、ないのかもしれなかった。ソープなら、こう言うだろう。形が同じなら、あとはサイズの問題だ。ケニーなら、こう言うだろう。同じ川に浮かんでても、舟の大きさと、救命胴衣の有無は別の話だ。──それでも、シームのこたえてます、という一言はわたしの中のどこか柔らかいところに刺さったままだった。捕食者と、規律の部屋は熱狂の秋に同じ斜面に立っていた。
* * *
その十月、わたしは取材で、山の裾野の広がりを歩いて回った。
美容室で、隣の席の客が店員に半導体の積立の話をしていた。タクシーの運転手が信号待ちで、わたしにAIの株はまだ間に合いますかね、と訊いてきた。昼の定食屋のテレビが株高のニュースを流すと、店の親父がうちも少しやっとけばよかったなあ、と笑った。──九十年前の言い伝えをわたしは思い出していた。靴磨きの少年が株の話を始めたら、山を降りろ、という、あの話。いまの時代、靴磨きの少年はいない。代わりに積立の話をする美容室と、AI株を訊くタクシーがあった。
連載の五回目にわたしはその話を書いた。ただし、言い伝えの結論のほうは、書かなかった。山を降りろ、は、助言になってしまうからだ。代わりにこう書いた。九十年前の言い伝えが本当に言っているのは、株を買う人が増えると危ない、という話ではないと思う。その話題が断れない空気になったとき──買っていないことを説明しなければならない空気になったとき、相場はたぶんいちばん危ない場所にいる。あなたの職場で、あなたの食卓で、いま、買っていない人はどんな顔をしているだろうか。
掲載の翌週、読者からの手紙がまた数通来た。その中の一通は短かった。〈買っていない人の顔、うちの職場では、わたしです。毎日、肩身が狭いです。わたしは間違っているのでしょうか〉──わたしはその手紙を抽斗にしまった。返事は書けない。でも、覚えておくことは、できる。天才たちの秋のいちばん端っこで、買っていないことを謝りたくなっている人が確かにいた。
* * *
十月の最後の週、部屋の数字は目標への距離をまた少し、詰めた。
ドル円は百五十三円台。川は増水したまま、滔々と流れていた。当局の円安をけん制する口先の警告がちらほらと報じられ始めていた。去年の介入の記憶が市場の頭の隅で、点滅し始める水準だった。──それでも、川は流れていた。
金曜の夕方、ソープのレポートを聞き終えたケニーがホワイトボードの前に立った。緑と、黄色が二つ、並んだ表をしばらく眺めて、彼は言った。
「順調だな」彼は言った。「──順調ってのは、嫌な言葉だ。俺は四十年やってきて、順調のまま終わった年ってのをあんまり覚えてないんだ。どこかで必ず、一回、支払いがある。……ダリ。三つ目の目印だけが、まだ緑だ。円はまだ逃げ場のふりをしてるか」
ダリは窓辺で、首を横に振った。
「それが、分からないんです」彼女は言った。「この秋、世界はまだ一度も、本気で怖がっていない。だから、円が逃げ場かどうか、試されてもいない。三つ目の目印が緑なのは、合格したからじゃなくて、まだ試験が始まっていないからです。──次に世界がすくんだ日、円がどっちに動くか。わたしはそれをこの秋いちばんの試験だと思って、待っています」
試験は三週間後に来ることになる。
第52節|魔女の孤独
十一月に入ると、バブルかどうか、という問いそのものが、一つの興行になった。
わたしは取材のためにその興行の演目を毎日、整理していた。弱気の側には、大物が並んだ。四半世紀前の大暴落を予言して名を上げた老投資家がいまの相場を大恐慌の前夜や世紀の変わり目と比べた、と報じられた。世界最大級の銀行の頭領が二年以内の大幅な下落の確率は市場が思うより高い、と語ったと報じられた。AIの旗手である当の経営者までが、バブルは進行中だと思う、と認めたと報じられた。イングランドの中央銀行や、国際機関が調整のリスクを公式の文書で警告した。──強気の側にも、大物が並んだ。大手の投資銀行たちは、収益の裏付けがある、ドットコムの頃とは違う、と繰り返した。あの中央銀行の議長も、当時との違いを指摘したと報じられた。
強気も弱気も、それぞれの見出しが、よく読まれた。バブル論争は賛否のどちらの記事でも稼げる、優良なコンテンツだった。わたしはふと気づいた。バブルかどうかを全員で議論している状態そのものが、たぶん答えの半分なのだ。健全な相場で、健全さを議論する興行は成立しない。
* * *
そして、その興行の中で、一人の男が公開で、処刑されていた。
映画にもなった、あの伝説の投資家。四半世紀前、世界中が住宅の夢を見ていたときにたった一人で逆側に賭けて、伝説になった男。その男がAIの山の代表的な二つの銘柄に対して、下落に賭ける建玉を開示した、と報じられたのだ。この巨大な相場は壮大なバブルだ、と。
群衆の反応は速くて、残酷だった。
〈まだ言ってるのか、この人〉〈過去の栄光にすがる老人〉〈時代に取り残された男の末路〉〈君が空売りしてるあいだに僕らは資産を三倍にしました〉──賭けられた側の会社の経営者も、公然と、反発したと報じられた。嘲笑は祭りになった。伝説の弱気が山に楯突いて、返り討ちにあっている。その見世物は強気の群衆にとって、何よりの安心材料だった。ほら見ろ、あの伝説でさえ、逆らって笑われている。この山は安全だ。
そして、月の半ばが近づいた頃、続報が流れた。その老投資家が自分のファンドの登録を当局から取り下げた、と。──店じまい、だった。
わたしはその報せを戦時室で読んだ。読んで、思わず、窓辺を見た。ダリはその記事をもう読んでいた。彼女は長いこと、黙っていた。それから、独り言のように言った。
「四半世紀前」彼女は言った。「世紀の変わり目のバブルのいちばんてっぺんの月に当時、世界最大級だった、古いやり方の巨人が店を畳みました。理屈に合わないハイテクを最後まで、買うことを拒んだ人です。買わなかっただけで、何年も、時代遅れと笑われて、お客さんに見放されて。──店を畳んだのが、三月。天井も、同じ三月でした。歴史はときどき意地の悪い韻を踏む。いちばん我慢強かった人が我慢が報われる直前の月に退場する、という韻を」
「今度も、そうなると思いますか」わたしは訊いた。
「わかりません」ダリは言った。「ただ、覚えておいてください。相場は弱気を二回殺すんです。一回目は値段で。早すぎる弱気は上げ相場に轢かれて、お金を失う。二回目は名誉で。周りに笑われて、信用を失う。──そして、二回殺された弱気が全員いなくなった頃に初めて、本物の下げが来る。誰も、もう警告しなくなった頃に」
* * *
その週の金曜、部屋の中で、初めて、はっきりとした軋みが、鳴った。
ソープの週次レポートはいつもどおりだった。目印一、黄色。目印二、黄色。目印三、緑のまま──円の試験はまだ始まっていない。数字は順調。ドル円は百五十四円台。川は流れている。──報告が終わったとき、ダリが静かに手を挙げた。
「提案があります」彼女は言った。「玉を半分、降ろしませんか」
部屋が静かになった。ケニーが椅子ごと、彼女のほうを向いた。
「目印は」彼は訊いた。「折れたか」
「折れていません」ダリは正直に答えた。「黄色が二つ。降りる条件には、達していない。──でも、わたしの目には、山の空気が変わって見えるんです。弱気の店じまい。決算前のこの静かすぎる高さ。嘲笑のあの温度。数字にならないものばかりです。でも、わたしはこの匂いを知っている気がする」
「匂い、か」ケニーは腕を組んだ。長い沈黙だった。それから、彼はゆっくり言った。
「ダリ。八月の登山会議を思い出せ。条件を先に決めたのは、誰だ」
「……わたしです」
「なぜ、決めた」
「山の途中で議論を始めたら、降りられなくなるから」ダリは自分の言葉を自分で引用した。引用しながら、その言葉がいま、自分の首に回っていることも、分かっている顔だった。
「そうだ」ケニーは言った。「条件ってのはな、いちばん賢い日の自分がいちばん揺れてる日の自分に宛てて書いた、手紙だ。いま、お前は揺れてる。揺れてる日の判断と、賢い日の手紙と、どっちを信じる。──匂いで半分降りて、山があと三か月育ったら、うちは約束を割る。約束を割ったら、この部屋は終わりだ。それも、お前が飲んだ前提だ」
「分かっています」ダリは言った。「だから、提案です。命令じゃない。──でも、ケニーさん。一つだけ、言わせてください。条件は賢い日のわたしが書きました。その賢い日のわたしは店じまいの報せをまだ読んでいなかった。条件そのものが、古くなることも、あるんです」
「なら、会議だ」ケニーは即座に言った。「条件を変えたいなら、感覚でやるな。三つの目印に四つ目を足す提案として、出せ。ソープとジョーンズの検証つきでな。それが通れば、部屋の条件だ。通らなければ、いまの条件で登る。──それでどうだ」
ダリは少しのあいだ、黙っていた。それから、頷いた。
「四つ目の目印を提案します」彼女は言った。「──弱気の絶滅。市場から、警告する声が消えること。嘲笑の温度。それを数字にできるか、週末に考えます」
ソープが初めて、口を開いた。
「一つだけ、言っておく」彼はいつもの平らな声で言った。「ダリの匂いを笑う者はこの部屋にはいない。あの匂いは、四月の前にも、正しかった。──だが、匂いで条件を上書きし始めた部屋は条件のない部屋より、危ない。条件のない部屋は自分が博打をしていると、知っているからだ。私はケニーの側につく。会議で通せ。通せる形にできるなら、それはもう、匂いではない」
ジョーンズは最後まで、何も言わなかった。彼の機械は川の続行を示している。彼の九年はダリの目を信じている。機械と、魔女が初めて、逆を向いていた。その板挟みの顔をわたしは気の毒なような、頼もしいような気持ちで、見ていた。板挟みになれる、ということは、両方をちゃんと持っている、ということだった。
* * *
その夜、部屋に残っていたのは、窓辺のダリと、わたしだけだった。
「悔しいというより」ダリは夜の街を見下ろしながら、言った。「怖いんです、記者さん」
「何がですか」
「二種類あります」彼女は指を二本、立てた。「一つは、わたしが正しくて、早すぎる場合。山はまだ育って、わたしの警告は狼少年になって、部屋のみんなが、わたしの声に少しずつ、耳を貸さなくなっていく。そして、本物が来た日にわたしの声はもう届かない。──あの老投資家に今週、起きたことです。正しさは、早すぎると、無力になる。それどころか、有害にすらなる。誰も聞かなくなった警報は警報が存在しないより、たちが悪いので」
「もう一つは」
「わたしがただ間違っている場合」ダリは静かに言った。「早いのではなくて、間違っている。この山は燃えないのかもしれない。収益は本物で、環は環のまま健全に回りきって、歴史上初めて、きれいに着地するバブルなのかもしれない。──記者さん。早いと、間違いは、外から見ると、同じ形をしているんです。値段が上がり続けている、その間はずっと。そして、白状すると……中から見ても、時々、区別がつかない。今週のわたしは自分の目を少し、疑っています」
わたしは何も言えなかった。この人の口から、自分の目を疑う、という言葉を聞く日が来るとは、思っていなかった。でも、考えてみれば、当たり前のことだった。疑わない予言者は予言者ではなくて、ただの信者だ。ブリンが冬にそうだったように。──疑いながら、それでも見えてしまうものを抱えて立っている。それが、この人の言う、マクロの人間の職業病だった。
「一つ、訊いていいですか」わたしは言った。「見えなければ、楽なのにって、思うことはないんですか」
ダリは少し笑った。
「毎週、思いますよ」彼女は言った。「でも、記者さんだって、同じでしょう。取材して、書いて、届かなくて。見なければ、書かなければ、楽なのに。──それでも、あなたは明日も取材に行くし、わたしは明日も窓辺に立つ。呪いというのは、たぶん才能の請求書の名前なんです。請求書だけ踏み倒す方法はない。……さ、帰りましょう。決算の週が来ます」
* * *
十一月の半ば。世界は山でいちばん大きな会社の決算を待ち始めていた。
四半期ごとのあの儀式。五兆ドルの会社が五兆ドルに見合う数字を出せるかどうか。SNSは、決算またぎ、という言葉で、賑わっていた。〈人生を変える決算になる〉〈どうせまた爆益で最高値〉〈決算前に買い増しました〉──群衆は儀式の前から、祝杯の準備をしていた。
藤森さんの店では、その週、日足のノートの端に二つ目の印がついたらしい。初めて来た若い客が店の壁のテレビに向かって、決算の予想数字をそらで言ったのだという。藤森さんは、それを静かに教えてくれた。何の印かは、今度も、言わなかった。
試験監督が教室に入ってくる足音がもう廊下の先から、聞こえていた。
第53節|最初の亀裂
決算の数字は完璧だった。
木曜の朝、日本時間で言えば夜明け前に五兆ドルの会社は四半期の成績を発表した。売上は過去最高。利益も、過去最高。市場の予想をまた上回った。先行きの見通しも、強かった。半導体は作る先から、売れ続けている。──数字だけを見れば、山の頂上にまた一段、金色の階段が足された朝だった。
SNSは、夜明け前から、祝杯だった。〈爆益きたああああ〉〈疑ってた奴、息してる?〉〈これがバブル? 笑わせるな。これは実力だ〉。時間外の取引で、株は大きく買われていた。決算またぎに勝った天才たちが、続々と、含み益の画像を貼った。
戦時室で、ダリだけが、祝杯の外にいた。
「数字は文句のつけようがありません」彼女は発表の要点を読み終えて、言った。「本物です。環の中のお金も混ざっているでしょうが、それを差し引いても、強い。──でも、記者さん。今日の本番は数字じゃないんです。値段がこの完璧な数字にどう返事をするか。それが、本番です。目印の二番目を思い出してください。いい報せで上がるのは、健康。悪い報せでも上がるのは、熱狂。そして──完璧な報せで、上がりきれなかったら」
彼女はそこで、言葉を止めた。続きは、市場が言うことになっていた。
* * *
その夜、市場は返事をした。
海の向こうの木曜。株は祝杯どおりに高く始まった。五兆ドルの会社は朝方、大きく上げた。指数も、つられて、勢いよく上がった。そこまでは、台本どおりだった。──昼前から、様子が変わった。
上げ幅が静かに削られ始めたのだ。
理由の書かれていない売りだった。悪い報せは、何も出ていない。それなのに値段だけが、ずるずると、重くなっていく。朝の上げが消え、指数がマイナスに沈み、引けにかけて、下げが加速した。五兆ドルの会社は完璧な決算の翌日を下げて終えた。朝の高値からの落差はこの一年でも、めったに見ない大きさだった。恐怖の物差しは、盤中、二十七・八まで跳ねた。四月の関税ショック以来の高さだった。
道連れも、出た。山の中でも、いちばん夢の値段がついていた銘柄たちが、きつく売られた。AIの寵児と呼ばれた会社の株はこの月だけで、六分の一を失う勢いだった。そして、山の外でも、暗号資産が秋の高値から、深く、崩れ始めていた。夢の値段のものから、順番に空気が抜けていく。
〈え、なんで下がるの? 決算、良かったよね?〉
SNSのその素朴な一行がわたしには、いちばんこわかった。なんで下がるの。理由なら、ダリが三か月前にホワイトボードに書いていた。完璧な報せで上がりきれない日。熱狂のあとの冷めの初日。──良い報せは、全部、値段の中に先に入っていた。入り切っていたことが、完璧な決算の日にしか、確かめられなかっただけだった。
* * *
金曜の朝、戦時室の会議は五分で終わった。
「目印の二番目」ソープが事実だけを言った。「完璧な報せで、上がりきれなかった。条件、成立。──規定では、半分、降りる」
「異議は」ケニーが部屋を見回した。誰も、何も言わなかった。ダリも、だ。彼女は勝ち誇った顔をしていなかった。むしろ、いつもより、硬い顔をしていた。「──よし。執行」
そこからは、九月の避難訓練の再演だった。ジョーンズが畳む順番を読み上げる。ケニーが東京の朝の板の厚いところを選んで、玉を静かに半分に削っていく。ソープが一件ずつ、消し込みを確認する。──かかった時間は訓練の二回目より、さらに短かった。誰の声も、大きくならなかった。金曜の朝のありふれた事務作業のような顔で、この部屋は燃えると予言した山の川から、半身を岸に上げた。
終わったあと、部屋に妙な静けさが、残った。
「……あっけないもんだな」ケニーが椅子の背にもたれて、言った。「四十年やってて、降りる日ってのは、いつももっと、じたばたしたもんだった。売るか、売らないか。まだ行けるんじゃないか。あと一日待てば。──今日はそれが、なかった。条件が折れた、半分降りる、はい執行。……なあ、ダリ。お前さんの言った、賢い日の手紙ってのは、こういうことか」
ダリは窓辺で、小さく頷いた。
「手紙のとおりに動けた日はそれでも、来ないことのほうが多いんです」彼女は言った。「今日は来た。それだけで、この部屋はたぶん世界の上位の何パーセントかにいます。──でも、ケニーさん。言っておきます。今日降りた半分は明日から、わたしたちを拷問します。山がもし、ここから戻って、また育ったら。降りなかった世界の数字が毎日、画面の向こうに見える。降りるのは、一瞬です。降りたままでいるのが、長いんです」
* * *
そして、その同じ週、もう一つの試験の結果が出た。
円の試験だった。
世界が四月以来の恐怖の物差しを見た週。教科書なら、円が買われる週だ。株から逃げた金が安全とされる通貨に流れ込むはずの週。──円は買われなかった。それどころか、売られた。ドル円はその週、百五十七円台の後半まで駆け上がった。一月の高値以来、およそ十か月ぶりの円の安さだった。恐怖の物差しが跳ねた日と、円がいちばん売られた日が同じ週の中に並んでいた。
「実測、出ました」ジョーンズが静かに言った。「世界がすくんだ日に円が売られる。一月のDeepSeekの日、円は買われました。あれが、円が逃げ場だった、最後の記録かもしれません。今週、世界は確かに怖がった。そして、円は逃げ場に選ばれなかった。──三つ目の目印。円は試験に落ちました」
理由は足元に転がっていた。その同じ週、この国の新しい政権は二十兆円を超える経済対策をまとめていた。歴史的な規模の財政の張り出し。国債は増える。金利は上げにくい。──財務の当局は口では、行き過ぎた円安への警告を強めていた。けれど市場は口と財布が違うことを言うとき、必ず、財布のほうを値付けする。円安をけん制する政府が円安の燃料を閣議で決めている。その皮肉を百五十七円という数字が無表情に要約していた。
「四月と、比べてください」ダリが言った。「四月、世界が怖がった日、ドルが売られて、円が買われた。百四十円を割った。あれから七か月。今週、世界が怖がった日、円が売られて、百五十七円をつけた。──世界の避難地図がこの七か月で、書き換わったんです。ドルの信用はまだ低い。でも、円はその低いドルからも、逃げられる先ではなくなった。積立の川と、財政の張り出しと、金利差。三本の川が円の避難所の看板を押し流した。……この意味は重いですよ、記者さん。次に本物の逃げ場のいる日が来たとき──世界のお金はどこへ行けばいいのか。金が四千ドルまで買われている理由のたぶん半分はこれです」
わたしは手帳に書いた。円は試験に落ちた。──書きながら、変な感覚がした。円というのは、わたしの財布の中のこれのことだ。世界の避難地図から、わたしの国の通貨が静かに消された週。それなのにこの国のニュースの主役は株高と、経済対策の給付の話だった。地図の書き換えは、いつも書き換えられた側の知らないところで進む。
* * *
シームからの短信は金曜の夜に来た。
〈ご報告。うちの機械、決算の翌日の朝いちで、山の玉を半分、切りました。人間の会議より、速かったです。ブリンさんは、何も言いませんでした。画面を見て、一度だけ頷いて、それだけ。──七瀬さん。うちのフロアで今週、いちばん取り乱さなかったのは、いちばん人間らしくない部分でした。それが正しいことなのか、寂しいことなのか、僕にはもう、分からなくなってます〉
規律の部屋と、捕食者の機械はその週、同じ日に同じ方向に動いていた。降りたのは、疑っていた者たちだけだった。信じていた者たちは、押し目、と言った。〈AIバブル崩壊〉という言葉が木曜の夜、SNSの流行語の一覧に一瞬だけ、顔を出した。半日で、消えた。代わりに上がってきたのは、〈絶好の買い場〉だった。四月に刷り込まれ、七月に強化された、あの教訓が三たび、火を入れられていた。下がったら、買い。今度も、買い。──富岡さんのスクラップ帳と、同じ理屈が何百万の画面の中で、同じ真剣さで、開かれていた。
週末、わたしは連載に書いた。今週、世界の地図から、静かに消されたものについて。円という通貨が怖い日に買われなくなった、という、たぶん教科書がいつか書き換えられる話について。そして、最後に一行だけ、書いた。亀裂は入った。まだ、割れてはいない。ひびの入った氷の上で、宴は続いている。
そして、わたしたちが半分降りた、まさにその日の夜。海の向こうで、中央銀行の高官が一つの講演をすることになっていた。
第54節|一言で戻る世界
その金曜の夜、ニューヨークの中央銀行の総裁が講演で、こう述べたと報じられた。近いうちに政策を追加で調整する余地がまだある、と。
翻訳すれば、十二月も、利下げができる、という意味だった。
たった、それだけだった。新しい数字が出たわけでも、山の会社の何かが変わったわけでもない。一人の高官の講演の中の一つの言い回し。──市場はそれに飛びついた。十二月の利下げの確率はその一言の前と後で、跳ね上がった。株の先物がするすると戻り始めた。木曜に二十七・八まで跳ねた恐怖の物差しが、しぼんでいく。金曜の引けにかけて、市場は何事もなかったような顔を取り戻し始めていた。
わたしは戦時室のモニターで、その戻りを見ていた。金曜の朝にこの部屋が静かに半分降りた、その同じ日の夜だった。
「……嘘でしょう」わたしは思わず言った。「一言、ですよ。たった一言で」
「一言で戻る世界、ですよ」ダリが窓辺から言った。声に驚きは、なかった。「覚えておいてください、記者さん。いまの市場の床は収益でできているのでも、金利でできているのでもありません。中央銀行が助けてくれる、という期待でできているんです。木曜に床が抜けかけた。金曜に期待の大工が来て、床板を一枚、打ち直した。──それだけの話です。四月の十三時間と、同じ形。あのときは大統領の投稿で、今度は総裁の講演で。……この世界の床板はいつも誰かの言葉です」
* * *
翌週から、市場は全戻しにかかった。
指数は驚くほどの速さで、値を取り戻した。十二月に入ると、また記録の更新が天気の話に戻った。恐怖の物差しは、平常の目盛りまで、しぼんだ。〈AIバブル崩壊〉と半日だけ騒いだSNSは、語彙を差し替えていた。〈健全な調整でした〉〈あの下げで、弱い手が振り落とされた〉〈やっぱり押し目は買いだった。もう何回目?〉──騒ぎの言葉が崩壊から、健全へ。たった二週間で。言葉の値段は株より、ずっと軽かった。
ただし、ジョーンズの画面は全戻しの中の妙な模様を捉えていた。
「指数は戻りました」彼は言った。「でも、中身が違うんです。戻りを引っ張っているのは、山の外の銘柄たちです。山の中心──五兆ドルの会社も、あの寵児も、指数が記録を更新した日になっても、十月の自分の高値には、届いていない。──雪が頂上にだけ、残っています。全体の地面は温かいのにいちばん高いところの雪だけが、解けない。こういう模様を僕の過去のデータはあまり、いい前触れとして、記録していません」
頂上の雪。──ダリの目印の二番目は一言のリセットで、なかったことになったように見えた。けれど、値段の中身を覗けば、冷めの初日の痕跡は頂上に白く、残ったままだった。
* * *
そして、部屋には、ダリの予告した拷問が始まっていた。
降りた半分の拷問だ。
残り半分の玉は川の上で、変わらず働いていた。それでも、画面の中には、毎日、もう一つの世界が映った。降りなかった世界。半分を岸に上げず、全部で川に乗り続けていた場合の数字。指数が記録を更新するたび、そのありえた数字と、実際の数字の差が静かに開いていく。
誰も、その差を口にしなかった。口にしないことが、逆にその差の存在を部屋の空気の中に太字で書いていた。
「一つ、白状しておくとな」ある日の夕方、ケニーがモニターを見たまま、言った。「降りて、正しかった相場より、降りて、早すぎた相場のほうが、俺の四十年には、ずっと多い。降りるってのは、たいてい、まず、馬鹿を見るところから始まるんだ。──で、この商売の嫌なところはな、馬鹿を見てる期間に条件を破って戻った奴から、次の本物で、死ぬってことだ」
そのとき、部屋の中で、一つの穴が見つかった。見つけたのは、ソープだった。
「規定の不備を報告する」彼はいつもの平らな声で言った。「登山計画には、降りる条件が三つ、書いてある。だが──降りたあとに登り直す条件がどこにも、書いていない。目印二は折れた。そのあと市場は戻った。では、我々は半分を戻すのか、戻さないのか。判断の根拠になる文章が計画書に存在しない」
部屋が静かになった。ダリがゆっくり頷いた。
「わたしの設計漏れです」彼女は言った。「降り方ばかり考えて、降りたあとの自分たちが、戻りたくなることを計算に入れていなかった。……正直に言います。いちばん危ないのは、いまです。ここで、なんとなく、半分を戻したら、わたしたちは条件で動く部屋から、気分で動く部屋に戻る。四月より前の世界に」
「なら、決めよう」ケニーが言った。「書いてない操作はしない。残り半分で、年末まで行く。登り直しの条件は──来年の計画書の宿題だ。今年の計画書には、ないんだから、やらない。以上」
それは、勇ましい決定では、なかった。むしろ、その逆だった。降りなかった世界の数字を毎日、見せられ続けることを部屋として、正式に引き受けます、という決定だった。拷問の刑期を自分たちで、年末までと定めたのだ。──わたしはこの決定の地味さをたぶん一生、覚えていると思う。規律というのは、派手な我慢のことではなくて、書いてないことをやらない、という、それだけのことの積み重ねだった。
* * *
その夜、ジョーンズのゲーム部屋から、久しぶりに大きな声が聞こえた。
「ジョーンズさん! 俺、決めました!」ぴぴたんの声は晴れ晴れとしていた。「潜るのやめます! ランク戦、復帰します! で──AIビルド、組みました! フル装備っす!」
ヘッドセットの向こうで、ジョーンズが一拍、黙るのが分かった。
「……環境が固まるまで潜る、が、君の戦略だったはずだ」
「固まったじゃないっすか、もう!」ぴぴたんは言った。「この一年、見ててくださいよ。四月に暴落→戻った。七月も→戻った。先週も→もう戻った。三回っすよ、三回! 押し目は買い、って、環境が三回、答え合わせしてくれたんすよ。ここまで検証して乗らないの逆に非科学的っしょ。俺、我慢して、我慢して、周りが儲かるのずーっと見てたんすよ。もう、いいでしょ、別に……」
その最後のもういいでしょ、別にという言い方にわたしは聞き覚えがあった。理屈が先に立って、最後に疲れが本音を漏らす、あの言い方。富岡さんのわしにはもう時間がない、と、根っこが同じ場所から出ている声だった。ぴぴたんを山に登らせたのは、強欲ではなかった。我慢の燃料切れだった。
「ぴぴたん」ジョーンズは少しのあいだ、黙ってから、言った。「君の口座の話だ。僕がとやかく言うことじゃない。──一つだけ。降りる条件を先に決めておいてくれ。紙に書いて。登ってから決める条件は条件じゃないんだ。それだけだ」
「出た、ジョーンズさんの紙に書け」ぴぴたんは、笑った。「分かりました、書きます書きます。──でも、大丈夫っすよ。今回は収益があるんで」
わたしは息を止めた。今回は収益がある。クマノフの台詞。山の上で作られて、居酒屋まで転がり落ちてきた、あの理屈がとうとう、ゲーム部屋まで、届いていた。
そのとき、ずっと黙っていたUserが、ぼそりと言った。
「──これで、疑ってた奴は全員、買った」
それだけ言うと、いつものようにログアウトする、おやすみ、と消えた。ぴぴたんが、え、何すかそれ、こわ、と笑っていた。ジョーンズは笑わなかった。わたしも、笑えなかった。疑っていた者が全員、買った市場には、次に買う者がもういない。──あの無口な男はいつもいちばん短い文章で、いちばん大きな地図を描いた。
* * *
シームからの短信は週の半ばに来た。
〈ご報告、続き。うちの機械、月曜の朝に切った玉を全部、拾い直しました。下で切って、もっと下で……じゃなくて、切った値段と、ほぼ同じ値段で、です。往復の手数料分だけ、負けました。誤差です。──機械はプライドがないんです。木曜に降りたことと、月曜に戻ることのあいだに物語がない。だから、速い。人間だけが、降りた場所で、考え込むんです。降りた自分は正しかった、って物語を抱えて。……おたくの部屋はどうしてますか〉
わたしは少し考えて、正直に返した。うちの部屋は考え込んでいます。書いてないことは、やらない、と決めて。──シームの返信は短かった。〈それ、機械には、できないことです〉
どちらが上等なのか、わたしには、分からなかった。プライドのない機械は往復の誤差だけで、亀裂を無傷で通り抜けた。プライドのある部屋は拷問を年末まで、引き受けた。──ただ、一つだけ、分かっていることがあった。次に来る本物の日に機械はまた無傷で通り抜けるだろう。そして、そのとき市場に残る痛みは、全部、機械になれなかった者たちの取り分になる。
十二月が来た。カレンダーの先には、この国の中央銀行の会合が待っていた。
第55節|円が逃げない
十二月の街は円安の値段で、飾りつけられていた。
わたしはその頃、生活の側から、円を取材して歩いていた。輸入の食材を使う洋菓子屋はクリスマスケーキの値段をまた上げていた。上げても、材料の値上がりに追いつかないという。旅行代理店の店頭では、年末年始の海外パックの価格表の前で、若い夫婦が長いこと立ち止まって、結局、国内のパンフレットを手に取った。──その同じ街に海の向こうからの旅行者があふれていた。彼らは、口々に安い、と言った。この国の寿司がホテルが着物が雪が安い。世界の避難地図から消された通貨の国は世界の観光地図では、お買い得の国として、輝いていた。
円が逃げない、という言葉をわたしは十一月から、相場の言葉として使ってきた。十二月の街を歩いて、分かった。それは、相場の言葉である前に生活の値札の話だった。円は怖い日に世界から選ばれない。そのぶん、普段の日も、静かに安い。安さは、財布のいちばん薄いところから、順番に効いていく。──そして、この国のニュースはその冬も、株高の話と、給付の話で、忙しかった。
* * *
戦時室では、その円安の水面下の水の流れが、整理されていた。
「金利差、というのが、教科書の一行目にあります」ジョーンズが画面に単純な棒を二本、並べた。「海の向こうの金利と、この国の金利の差。いま、およそ三パーセント。海の向こうは利下げを続けて、この国は利上げの途中だから、差は縮んでいる。教科書なら、円高です。──でも、実際に流れているお金の顔ぶれを見ると、話が逆になる」
彼は棒の横に三本の矢印を描いた。
「一本目。海外の投機筋のキャリー。差が三パーセントもあれば、円を借りて外貨で運用するだけで、寝ていても差額が入る。差は縮んでいても、絶対の幅としては、まだご馳走なんです。二本目。この国の積立の川。九月に話した、考えないお金。毎月、決まった日に円を売る。三本目が新顔です。この国の個人の外貨の生活化。給料の何割かを最初からドルで持つ人。早期の引退を目指して、配当の出る海外株に集中する人。円で持っていること自体をリスクと呼ぶ言葉がこの一、二年で、普通になった。──三本とも、円売りです。そして三本とも、少々の金利差の変化では、止まらない」
「利上げをする国の通貨が売られる」ダリが窓辺で言った。「一年前なら、試験で罰点のつく文章です。いまは、これが、実測です。──記者さん、来週、この国の中央銀行はたぶん金利を上げます。三十年ぶりの高さにです。市場も、それをほぼ織り込んでいる。教科書なら、噂の段階で、円が買われるはずです。……見てください、この一週間の値段を。円は買われるどころか、じりじり売られている。噂で買う、が、来ないんです。買う者がいないから。──来週の会合はだから、いい実験になります。織り込まれた利上げが実行された日に円がどっちに動くか。この国の通貨のいまの正味の体力が数字で出ます」
ドル円は十二月の半ばに向けて、百五十五円から、また百五十七円のほうへ水位を上げていた。会合の一週間前だというのにだ。当局の口先の警告は続いていた。市場はもう警告の文言の強さを格付けして遊ぶ余裕さえ、見せ始めていた。──口と財布。財布は二十兆円の対策のほうにあった。市場はいつもどおり、財布を見ていた。
* * *
わたしは知らなかった。──と、また書くことになる。
その十二月の夜々、油の染みた工場の二階で、小宮さんは、いつもの座布団の上にいた。缶ビールを一本。妻の写真に胸の中で、今日の報告。日足を一本。──秋からの相場は彼の掟に優しかった。夏のあいだ彼を削った、あのヒゲだらけの往復は終わっていた。政治の秋から、川は一方向に流れ、日足は素直な階段を作った。決めた額で押し目を拾い、決めた線を割るまで持つ。それだけのことが、それだけのことをした者にちゃんと、報いる相場だった。
チラシの裏の算数は春に見たときより、少しだけ、ましになっていた。五年分の穴が埋まったわけではない。ただ、じわじわ足りない、のじわじわの角度が少し、緩んだ。彼はその角度の変化を誰にも言わなかった。言う相手も、いなかった。ただ、十二月のある夜、彼は商店街の写真屋で、新しい写真立てを一つ買った。古いのが、壊れたわけではない。なんとなく、だった。万年床の脇に新しい写真立てに入れ直した妻の写真を置いて、彼はいつもより長く、それを見てから、灯りを消した。
週末にわたしに電話をくれたのは、その頃だ。
「おう、直美か。メシ食ってるか。──正月、来るんだろうな? 餅、つく気はないが、買う気はあるぞ」
「行くよ」わたしは笑った。「叔父さん、なんか、声、機嫌いいね」
「そうか?」電話の向こうで、彼は少し、間を置いた。「……まあ、あれだ。膝がな、寒くなると痛むんだが、今年はまだましなんだ。それだけだ。──じゃあな。メシ食えよ」
膝の話にしては、機嫌がよすぎた。でも、わたしはそれ以上、考えなかった。考えなかったことをいまは、いい思い出のように書いておく。あの冬、わたしの叔父は誰にも見られない場所で、規律の小さな配当を受け取っていた。派手な勝ちではない。ただ、掟を守った者に相場がたまに支払う、静かな利息。──それを受け取る資格を彼は春の夜、冷蔵庫の前で、自分の手で、守り抜いていた。
* * *
ヒナからの報告は湯気の立つような長文で来た。
〈第一回、やったよ! 勉強会!〉
参加は六人だったという。ヒナの部署から二人、他の支店から三人、そして──あの子が来た。富岡さんの新しい担当だった子。バックヤードで、止め方を教わってないんです、と泣いていた、あの子だ。
〈テーマは直美の言うとおり、"慣れる、ということ"にした。教材はあなたの連載。──最初はね、みんな、しーんとしてたの。でも、あの子が口火を切った。"わたし、富岡さまの最後の判子、わたしが受け取ったんです"って。"あの日から、お客さまの注文を受けるたびにこの注文は判子までの何歩目なんだろうって、考えるようになりました"って。──そこから、二時間、止まらなかった。みんな、抱えてたの。それぞれの支店のそれぞれの富岡さんを〉
〈で、最後に決めたの。この会の名前。"止め方研究会"。売り方は会社が教えてくれるから、わたしたちは止め方を研究する。──ね、直美。これ、小さすぎて、笑っちゃうでしょ。六人だよ、六人。この国に営業は何万人もいるのに〉
わたしは返信を打った。六人は小さくない。一年前、ゼロだったんだから。
送ってから、わたしは抽斗の三通の手紙のことを思った。うちも、同じです、と書いてきた、別々の会社の三人。あの三人はまだ互いを知らない。ヒナの六人も、あの三人を知らない。──でも、点はもう七つも八つも、灯っている。点と点を繋ぐのは、たぶんわたしの連載のこれからの仕事だった。構造は一人では変えられない。でも、構造の中の灯は一つずつしか、点かない。
* * *
週の終わり、連載にわたしは「円が逃げない」を書いた。
十一月の恐怖の物差しが跳ねた週に円が売られた話。ケーキ屋の値札と、国内旅行のパンフレットの話。世界の避難地図から、この国の通貨が静かに消されたことと、それでも株高の話ばかりが流れる、この国の年の瀬の話。──助言は書かなかった。代わりに最後にこう書いた。円が逃げない、というのは、円で暮らすわたしたちが逃げ場のない側に立っている、という意味でもある。せめて、知っておいてほしい。あなたの財布はいま、世界の地図の書き換えの中にいる。知っている人と知らない人の差は崖の日ではなく、こういう静かな冬に開いていく。
掲載の数日後、会合の朝が来た。
この国の中央銀行が三十年ぶりの高さへ金利を上げるかどうかの日。ドル円は百五十六円台で、奇妙なほど、静かだった。噂で買う者のいない静けさ。──実験の開始だった。
第56節|噂で買って、事実で売る
昼過ぎに結果が出た。
利上げ。政策金利は〇・七五パーセントへ。──一九九五年以来、三十年ぶりの高さだった。三十年。わたしが生まれてから、この国の金利が一度も見たことのなかった場所だ。歴史的、という言葉がまた見出しに並んだ。
円は買われた。ほんの少しだけ。
発表の直後、ドル円はするりと下に動いた。教科書が最後の力で、円を買わせた数十分だった。──そして、午後の総裁会見が進むにつれて、値段は向きを変えた。会見の言葉は慎重の側に響いた。次の利上げを急ぐ気配は薄かった。市場はその気配をすばやく、値付けした。夕方には、円買いは、跡形もなく消えていた。夜、海の向こうの市場が開くころ、ドル円は会合の前より、円安の場所にいた。週の終わりには、百五十七円台の後半。──十一月のあの恐怖の週につけた高値と、ほとんど同じ高さまで、戻っていた。
三十年ぶりの利上げの週に円は十か月ぶりの安値圏で、引けた。
「実験、終了です」ジョーンズが言った。「結果──織り込まれた利上げは、円を一時間しか、買えませんでした。噂で買う者がいないまま、事実で売る者だけが、いた。……教科書のあの一行。金利を上げる国の通貨は買われる。僕の機械の中では、今日づけで、正式に過去の相性に分類されました。円は金利では、動かない。動かすには、たぶん金利差がいまの半分になるか──それか、世界のほうが、変わるかです」
ダリはその日、長い解説をしなかった。ただ、モニターの数字を見て、短く、言った。
「これで、材料が出尽くしました」彼女は言った。「利上げも、経済対策も、会合も、終わった。年内、円を動かす予定表はもう白紙です。──この水位のまま、年を越します。百五十七円。去年の年末が百五十七円でした。一年かけて、百四十円を見て、百五十七円に帰ってきた。……円は往復しただけ。でも、世界は往復していません。行きの百五十七円と、帰りの百五十七円は別の国の別の通貨です。行きの円はまだ避難所の看板を持っていた。帰りの円は持っていない」
同じ数字の別の意味。──わたしはそれを年の瀬の連載の題に決めた。
* * *
十二月の最終週、デスクは残りの半分の玉を静かに畳んだ。
劇的な理由は何もなかった。登山計画書の最後の行にそう書いてあっただけだ。約束の計測は暦の年で行う。よって、年内最終週に全量を手仕舞う。──九月に百四十五円台で拾い、政治の窓を越え、百五十七円まで運ばれた川下りは、それで、終わった。ケニーが最後の注文を確認して、消し込んだ。部屋の誰も、何も言わなかった。四か月の登山の終わりは、金曜の朝の五分の事務作業だった。
そのあとで、ソープが年末の検算を配った。
一枚目はいつもの断層監視。黄色、黄色、そして、赤が一つ──円の試験、不合格。二枚目が今年の成績表だった。そして三枚目に彼はめずらしいものを載せていた。
「十一月に半分降りた」ソープは言った。「あの判断の値段を計算しておいた。降りなかった世界と、降りた世界の差額だ。──十一月の後半、降りた半分がもし川に残っていたら。ドル円はあのあと、百五十七円から百五十四円台へ沈んで、また百五十七円に戻った。行って、帰ってきた。つまり、降りた半分の機会の損失は──」彼は数字を言った。ほとんど、ゼロだった。「往復の誤差。それだけだ。我々は一か月、降りなかった世界の幻に拷問されて、その幻の請求書は白紙だった」
部屋に妙な沈黙が流れた。それから、ケニーが喉の奥で、低く笑い出した。
「拷問、無料か」彼は言った。「──四十年やってて、初めて聞く勘定だ。おいダリ、聞いたか。お前さんの言った拷問はな、実在せん幻の数字が俺たちを一か月殴って、年末になかったことになったんだ。相場ってのは、つくづく、性格が悪い」
「笑えません」ダリは言った。けれど、その口元は少しだけ、緩んでいた。「……でも、記録してください、ソープ。この検算は来年の計画書のいちばん大事な一枚になります。降りる判断の値段は降りた瞬間には、絶対に分からない。分かるのは、ずっとあと。だから、判断は値段でなく、条件で守るしかない。──今年のこの部屋が身体で覚えた、いちばん高価な一枚です。授業料、無料でしたけど」
* * *
年の瀬の数字はこうなった。
年間、三十三パーセント。
前半の守りの半年がほぼゼロ。後半の登山の四か月が全部だった。三十三。──約束の数字は三十五だ。二パーセント、足りない。四月に世界中の賢い金が沈む中を無傷で抜け、秋の川を規律で下り切って、それでも、二、足りなかった。
霧島が来たのは、仕事納めの前日だった。
予告なしのいつもの現れ方だった。灰色の背広に冬の外套。彼はケニーの机の脇に立って、成績表を長いこと、見た。誰も、口を挟まなかった。窓の外は暮れの短い夕方だった。
「三十三、か」霧島はやがて言った。「──惜しいね」
「ああ」ケニーは言った。「惜しい」
「言い訳はあるかね」
「ない」ケニーは即座に言った。「四月の保険料に二パーセント。それが今年の中身だ。言い訳じゃなくて、明細だ。読みたきゃ、ソープが一枚にしてある」
霧島は成績表から、目を上げた。その目がホワイトボードのほうへゆっくり動いた。山の絵。断層の横線。黄色が二つと、赤が一つの監視表。──彼はそれを値踏みするように眺めた。
「四月に死んでいれば」彼は静かに言った。「貸しも借りも、なかった。生き残ったから、二の借りが、生まれた。──悪い借りじゃない。私はそういう帳簿の読み方をする人間でね。……二パーセントは借りにしておこう」
「借り、ね」ケニーが目を細めた。「利子は」
「つけない」霧島は言った。「忘れも、しないが。──来年の約束は同じだ。三割五分。それと」彼は外套の襟を立てながら、もう一度、ホワイトボードの山を見た。「来年はこの山の年になる。登るにせよ、燃えるにせよ、どちらでもだ。……燃える山なら、昔、近くで見たと、前に言ったろう。あのときも、こういう、黄色い印がそこらじゅうに点いていたよ。誰も、見なかったがね。点けた本人すら、最後は」
彼はそれだけ言って、ドアへ向かった。そして、出て行く間際、初めて、部屋の隅のわたしをまっすぐに見た。
「記者さん。あんたの連載、読んでいるよ」霧島は言った。「──いい帳簿だ。消えた側の帳簿は誰もつけないから、値打ちが出る。続けなさい」
エレベーターの軋む音が遠ざかった。部屋には、借り、という言葉と、点けた本人すら、という言葉が暮れの空気の中に残った。ケニーは長いこと、ホワイトボードの山を見ていた。何を思い出していたのかは、訊けなかった。凍った池の氷は今年も、解けないまま、年を越すのだった。
* * *
その夜、わたしは帰り道の川沿いをまた歩いた。
一年前の暮れ、ドル円は百五十七円だった。今年の暮れも、百五十七円。連載に書いたとおり、同じ数字の別の意味。──そして、この部屋の一年も、同じことが言えた。去年の暮れ、この部屋は目標に届いて、静かだった。今年の暮れ、この部屋は二パーセント届かず、静かだった。同じ静けさの別の意味。去年のは、達成の静けさ。今年のは、借りを抱えた者の静けさだった。
帰宅して、わたしはノートの最後のページに来年に持ち越すものを書き出した。
借り、二パーセント。黄色、二つ。赤、一つ。登り直しの条件、未執筆。凍った池、未解凍。山、五兆ドル、なお成長中。弱気、ほぼ絶滅。疑っていた者、全員買い済み。──書き終えて、わたしはそのリストをしばらく眺めた。どの一行も、それだけなら、静かな引き継ぎ事項だった。全部並べると、リストは別の顔をしていた。それは、乾いた薪の在庫表に見えた。
あとは、火だけだった。
第57節|山頂の年越し
年の瀬のSNSは、成績発表の季節だった。
〈今年の運用成績、公開します〉という書き出しが、タイムラインに洪水のように流れた。プラス四十パーセント。プラス六十。倍になった口座。三倍になった口座。スクリーンショットの数字はどれも、輝いていた。全員が勝った年の成績発表大会。──わたしはそれを眺めながら、二つのことを考えていた。一つ。マイナスの人は成績を発表しない。だから、タイムラインの平均はいつも現実の平均より、まぶしい。二つ。去年の暮れも、同じ祭りを見た。あのタイムラインの何割かは、四月に消えた。今年の祭りの参加者の何割が来年の祭りにいるのだろう。
成績発表の合間に来年の予想が飛び交っていた。〈来年もAI一強〉〈六兆ドルは通過点〉〈日経は六万円へ〉。強気の予想は細かく理屈がついていた。弱気の予想はほとんど、見当たらなかった。十一月にあの伝説の投資家が店を畳んで以来、弱気は公の場から、静かに消えていた。Userのあの一言のとおりだった。疑っていた者は全員、買った。買った者は疑いを口にしなくなる。自分の玉に呪いをかけたくないから。
* * *
仕事納めの日の藤森さんの店は年末のいい匂いがした。
「七瀬ちゃん! 今年もお疲れ!」クマノフは上機嫌の頂点にいた。「聞いてくれ。俺の今年の成績、発表するぞ。AI株──プラス三割五分!」
「まだ、持ってるんですよね」わたしは訊いた。
「当たり前だ! 売るわけないだろ、この山を!」クマノフは胸を叩いた。「いいか、七瀬ちゃん。俺は今年、生まれ変わったんだ。夏に買って、秋の上げに乗って、十一月の下げも、耐えた。昔の俺なら、あそこで投げてた。だが俺は耐えた! そしたら戻った! つまり俺はついに握力を手に入れたんだ!」
「諸君」チカノフがグラスを置いた。今年最後のあの口調だった。「年末につき、本年の総括を統計的に行いたい。──クマノフ君は今年、三つの発明をした。一月、ログインしないという発明。これは、機能した。七月、手紙が来たら買うという発明。これは、天井を当てた。逆側からだが。そして夏、AI株と握力という発明。これは──まだ、結果が出ていない。つまり、彼の今年の成績は二勝〇敗一分け。ただし、二勝はどちらも、彼が何もしなかった時間に記録され、唯一の未決着が彼のいちばん大きな玉である。──諸君、来年も、この男から、目を離さないように。彼はこの店に飾られた、生きた気圧計だ」
「褒めろよ! 素直に!」
店中が笑った。藤森さんも、笑っていた。それから、彼はカウンターの下から、あの日足のノートをめずらしく、少しだけ、見せてくれた。年末のページの端に小さな印が三つ、並んでいた。
「三つ目はいつですか」わたしは小声で訊いた。
「今週です」藤森さんは、静かに言った。「常連のタクシーの運転手さんがね、車を売って、そのお金を山に入れたそうです。商売道具をです。──わたしの印はね、七瀬さん、売り時とか、天井とか、そういう大層なものじゃ、ないんですよ。ただ、昔、同じ種類のことが続いた冬を一度、見たことがある。だから、印をつけて、あとは、いつもどおり、日足を一本ずつ見るだけです。……よいお年を。来年も、笑って飲めるといいですねえ、みんなで」
みんなで、のところに藤森さんは、少しだけ、力を置いた。わたしはその小さな力の置き方を聞き逃さなかった。
* * *
正月、わたしは小宮モータースに行った。
工場のシャッターは正月らしく、閉まっていた。二階の四畳半で、買ってきた餅を電気ストーブの網で焼いた。膨らむ餅を二人で、真剣に見張った。テレビは駅伝を流していた。
「叔父さん、膝は」
「寒いと痛む」小宮さんは言った。「が、今年はましだ。──それより、聞け。年末にな、若いのが、三人、来たんだ。大学生よ。古い車を直して乗りたいんだと。いまどきの子は新しい車に興味がなくてな、逆に俺の頃の車が格好いいんだそうだ。電気もコンピュータも積んどらん、油と鉄だけの車が。──で、直してやったら、その仲間がまた来る。妙な時代よ。俺の商売が時代遅れすぎて、一周回って、新しいんだと」
「よかったじゃない」
「まあな」彼は餅をひっくり返した。「食っていけるほどじゃ、ないがな。それでも、リフトが月に何度か、ちゃんと鳴る。それだけで、工場ってのは、生き返ったような顔をするんだ。……機械ってのはな、直美。使われてる時がいちばんいい顔をする。人間と、同じよ」
彼は機嫌がよかった。去年の正月より、ずっと。理由の半分はたぶん大学生たちと、リフトの音だった。もう半分の理由をわたしは知らないことになっている。──秋からの素直な相場が決めた額の掟に静かな利息を払い続けたこと。チラシの裏の算数の角度がまた少し、緩んだこと。
「そういやテレビでな」小宮さんが、餅に醤油を垂らしながら、言った。「今年は投資で儲かった人が多い、とかやっとった。株も、外貨も、大勝ちの年だったと。──ふん。ああいうのを見るとな、俺は逆に背中が寒くなるんだ」
「なんで?」
「なんでかな」彼は少し考えた。「……全員が勝つ年ってのは、な。誰かが、まだ払っとらん、ってことだ。飲み屋で全員が奢られとったら、勘定は誰かのツケになっとる。──と思うだけよ。俺は博打はやらんからな。近づくなよ、お前も」
「わかってるよ。いちばんわかってる」
わたしは焼けた餅を頬張った。飲み屋のツケの喩えが、ソープの保険料の話や、ダリの環の話と、同じ形をしていることをこの人は知らない。夜ごとの日足と、決めた額の掟だけで、この人は同じ場所に自力で、たどり着く。──帰り際、彼はいつものようにシャッターの前まで出てきて、メシ食えよ、と言った。それから、めずらしく、一言、足した。
「直美。今年も、書けよ。お前の記事はな──」彼は少し、言葉を探した。「……読んどるぞ、って話だ。それだけだ。早く行け、寒い」
わたしは駅までの道を少し泣きながら、歩いた。寒さのせいにしておいた。
* * *
シームからの年越しのメッセージは元日の夜に来た。
〈あけましておめでとうございます。……という書き出しが正しいのか、分からない年末でした〉
ヘリオスは記録的な一年だったという。十一月の亀裂さえ、機械にとっては、往復の誤差だった。ボーナスの季節のフロアは浮かれていた。ブリンのデスクは社内の表彰を総なめにしたらしい。
〈年末に一度だけ、ブリンさんと、二人でエレベーターに乗りました〉シームは書いていた。〈沈黙が気まずくて、僕、言ったんです。すごい一年でしたね、って。そうしたら、あの人、階数の表示を見たまま、こう言いました。"数字はいい年だった"──それだけです。数字はって。じゃあ、数字以外の何かが、あの人の中にまだあるのか。……それとも、数字以外は何もない、という意味だったのか。五階ぶんの沈黙のあいだ、僕はずっと考えてました。まだ、考えてます〉
〈来年の話をします。もし、山が燃えたら──僕は中から、数えようと思います。何がどの順番で、誰から壊れていくか。あなたは外から数えてください。いつか、突き合わせましょう。中と外の帳簿が揃えば、それは、たぶん誰にも書けなかった記録になる。……こういうことを考えるようになったのは、あなたのせいです。責任を取ってください。よいお年を〉
わたしはその最後の数行を何度も読んだ。中から数える。外から数える。──岸を渡らないと言った男は渡らないまま、記録者になる道を自分で見つけていた。氷のひびは、割れ目にならないまま、その形のまま、何かの器になろうとしていた。
ヒナからは、年始に短い報せが来た。勉強会は八人になった。そして、一月から、わたしが繋いだ、あの三通の手紙の主たちと、合同で、集まることになったという。別々の会社の止め方研究会。十一人の小さな、点の群れ。〈直美、点が線になり始めたよ〉と、ヒナは書いていた。
* * *
仕事始めの前日、わたしは誰もいない戦時室に少しだけ、寄った。
合鍵を預かる身分にいつのまにか、なっていた。暖房の切れた部屋は冷たくて、静かだった。ホワイトボードには、山の絵と、断層の横線と、黄色二つ、赤一つの監視表が年をまたいで、残っていた。隅にダリの字で、冬休みの宿題、と書いてある。登り直しの条件。四つ目の目印(弱気の絶滅を数字にする)。──その下にソープの字で、一行。拷問の検算表を計画書に綴じること。
わたしは窓辺に立ってみた。ダリがいつも見ている角度で、街を見下ろした。正月の街は静かで、どこの窓にも、穏やかな灯りがついていた。この灯りのいくつもの中で、積立の設定が来月も、円を売る。成績発表の口座が来年の祭りを信じている。タクシーだった男の退職金が山の上で、初日の出を見ている。
山は絶頂のまま、年を越した。
薪の在庫表はわたしのノートの中で、一行も、減っていなかった。むしろ、正月の間にそっと増えていた。商売道具を売った運転手。三つ目の印。全員が奢られている飲み屋。──それでも、と、わたしは冷たい窓ガラスに指で、小さく書いた。それでも、点は線になり始めている。ヒナの十一人。シームの帳簿。小宮さんのリフトの音。降り方を訊いてきた、あの読者。
火が来る前に灯をどこまで増やせるか。
二年目のわたしのそれが、新しい年の宿題だった。
第58節|早すぎる手紙
仕事始めの週、ドル円は百五十八円台に乗った。
一年前の一月と、ほとんど同じ数字だった。あのときの百五十八円は利上げ前のまだ避難所の看板を掲げていた円の値段だった。今年の百五十八円は三十年ぶりの金利まで上げ切って、それでも売られている円の値段だった。同じ高さに二年続けて、正月の旗が立った。旗の生地だけが、別ものになっていた。
そして、市場の新年の話題に一つの数字が混ざり始めていた。
百六十円。
〈百六十、普通に見えてきたな〉〈介入ラインはどこ?〉〈当局の口先、もう効かないでしょ〉。──去年の四月に世界が沈んだとき、百六十円は遠い過去の遺跡のような数字だった。それが、新年のタイムラインでは、次の停留所の名前として、時刻表に載り始めていた。介入、という言葉も、一緒に埃を払われていた。二年前の夏、わたしをこの物語に引きずり込んだ、あの言葉が。
* * *
仕事始めの戦時室で、冬休みの宿題が提出された。
一枚目は登り直しの条件。十一月に見つかった、計画書の穴の埋め草だった。降りたあと、戻ってよい場合を感覚ではなく、文章で定義する。ダリとソープが休みのあいだに書き上げていた。二枚目が四つ目の目印だった。
「弱気の在庫、と名付けました」ダリは言った。「市場に残っている、疑いの量を数えます。山への下落に賭けている建玉の残り。弱気の側に立つ記事や予想の出現の頻度。この疑いの在庫が涸れ切ったとき──つまり、誰も山を疑わなくなったときが、目印の点灯です。理屈は単純です。相場が上がり続けるには、あとから買う人が要る。あとから買う人というのは、今日まで疑っていた人のことです。疑いの在庫は未来の買いの在庫。それが涸れた山はどんなに立派でも、上がる燃料がない」
「で、いまの在庫は」ケニーが訊いた。
「涸れかけています」ダリは正直に言った。「あの店じまい以来、公の弱気はほとんど残っていない。ゲームの部屋の最後の疑い深い人まで、買いました。──ただ、涸れかけと、涸れたは、違う。目印の点灯条件はこれから、ソープと詰めます。今年はこの四つ目がたぶん主役になります」
ケニーは四枚の紙を順番に眺めて、それを去年の計画書の上に重ねた。
「よし」彼は言った。「今年の約束は三割五分と、借りが二分。山は登るか、燃えるか、たぶんその両方だ。──いい年になるぜ、諸君。少なくとも、退屈はせん」
その言い方は去年の暮れの「厄介な後半戦」と、同じ種類の両方の本音だった。四十年の男は借りを背負って、少しだけ、若返って見えた。
* * *
一月のニュースの中にもう一つ、静かな時限装置が埋まっていた。
海の向こうの最高裁判所だ。
去年の四月に世界の地図を燃やした、あの関税。その法律の根拠を巡る裁判が秋に最高裁の法廷で争われていた。大統領の使った緊急の権限がそもそも関税をかける力を含んでいたのか。──判決は年明けのどこかで出ると見られていた。
「面白い話でしょう」ダリが言った。「四月にあれだけの人が退場して、あれだけの地図が燃えて。その火事の火元がそもそも合法だったのかどうかを世界はまだ知らないんです。裁判所が春に答えを出す。もし、違法だった、となれば──燃えた地図の持ち主たちは、どこに請求書を出せばいいんでしょうね」
「請求書の宛先が決まってから燃える火事はないんだ」ケニーが言った。「火事ってのは、いつも先に燃える。裁判はあとから来る。灰の上をな。──まあ、見とけ。判決がどっちに出ても、市場は一日で織り込んで、次の日には忘れる。だが、あの判決は覚えとく値打ちがある。世界でいちばん強い男の言葉が紙切れになるかどうかの試金石だからな」
わたしは手帳の新年のページに書いた。春、最高裁、関税の答え合わせ。──去年の手帳の秋、政治、円、というメモと、同じ書き方で。ダリの言う予定表の白紙はもう白紙ではなくなっていた。
* * *
その週の夕方、わたしは窓辺のダリと、長く、話した。
部屋には、二人だけだった。冬の夕焼けが、ビルの谷間を橙色に染めていた。
「一つ、訊いていいですか」わたしは言った。「去年の七月、あなたは言いました。次に燃えるのは、この地図だと。あれから、半年です。山は五兆ドルになって、年を越しました。十一月の亀裂も、一言で、埋まりました。──いま、どう思ってるんですか。あの予言のこと」
ダリはすぐには、答えなかった。窓の外の暮れていく街を見ていた。
「取り消しません」彼女はやがて言った。「そして、急ぎません。──記者さん、この半年で、わたしは一つ、覚悟を決めたんです。わたしの見えているものが正しいなら、それは、わたしの都合のいい日には、来ない。予言というのは、当たる日を選べたら、予言じゃなくて、予約です。わたしにできるのは、二つだけ。見えたものを言い続けること。そして、来る日まで、部屋を生かしておくこと。去年、わたしたちはその二つをどうにか、やりました。予言は外れのままで、部屋は生きている。──いまのところ、満点です。誰にも、満点に見えないでしょうけど」
「怖くないですか。このまま、山があと三年、育ったら」
「怖いですよ」ダリは言った。「でも、記者さん。三年育つなら、育つでいい、とも、思うようになりました。わたしの仕事は天井の日付を当てることじゃない。あの日、確かめたんです。十一月の金曜の朝。条件が折れて、部屋が五分で半分降りた、あの朝。──あれが、わたしの予言の本当の形なんだと思います。日付を当てるんじゃなく、来た日にちゃんと動ける部屋を作っておく。予言は外れているあいだに避難訓練と、監視表と、計画書の形に変えておく。……そうしておけば、予言は外れ続けても、無駄になりません」
彼女はそこで、わたしのほうを向いた。
「あなたの連載と、同じですよ」ダリは言った。「遅れて届く手紙。──いい題です。でも、あなたはもう、気づいているでしょう。手紙は本当は遅れて届くんじゃない。早すぎて、読まれないんです。富岡さんに渡した手紙も、わたしの弱気も、あの店じまいした人の警告も。全部、早すぎた。そして、早すぎる手紙は届いた日には読まれずに抽斗にしまわれる。──読まれるのは、火が来た日です。火が来た日に人は抽斗を開けて、ああ、あの手紙はこのことだったのか、と読み直す。だから、書くんです。早すぎると分かっていても。火の日に開けられる抽斗に何も入っていないのが、いちばんいけない」
夕焼けが、消えかけていた。街に灯りが、次々と、点いていく。わたしは抽斗の中の飴と、三通の手紙と、降り方を訊いてきた読者の便箋を思った。あれは、遅れた手紙の置き場ではなくて、火の日のための備蓄だったのだ。
「今年は」ダリは窓の外に目を戻した。「答え合わせの年になると思います。山か、わたしか、どちらかの。──どちらでも、いいんです。部屋が生きていて、抽斗に手紙が入っていれば、どちらの答えでも、次に繋がる。……さ、帰りましょう、記者さん。今年も、長くなります」
* * *
その夜、わたしは連載の新年一回目を書いた。
題は迷わなかった。──早すぎる手紙。
わたしは書いた。この一年半で、わたしの見た、早すぎた手紙たちのことを。四月の前に穴の深さを測っていた男のこと。夏の登山の前に降り方を先に決めた人たちのこと。十一月の朝、五分で半分降りた部屋のこと。店じまいをした伝説の投資家のこと。そして、読まれなかった手紙がそれでも、無駄ではない理由を。手紙は火の日のために書かれる。あなたの抽斗にまだ何も入っていないなら、今年、一通でいい、入れておいてほしい。あなたの決めた、降り方を書いた、あなた自身への手紙を。
書き終えて、送信して、わたしは窓の外を見た。
一月の夜空は冴えていた。海の向こうの山の上にも、たぶん同じような、冴えた空があるのだろう。五兆ドルの山。疑いの在庫が涸れかけた、美しい斜面。六兆ドルは通過点だと、時刻表に書き込む人々。──山は終わりの前がいちばん美しく育つ。ダリの言葉のとおりなら、今年の山はこれから、いちばん美しい季節に入る。
わたしの手帳の最後のページで、薪の在庫表と、灯の名簿が隣り合っていた。
どちらが先に揃うのか。
百六十円という停留所の名前が時刻表の次の欄に印刷されていた。介入という言葉が埃を払われて、棚に戻っていた。最高裁の時限装置が春に向かって、時を刻んでいた。そして、この国の油の染みた工場の二階では、今夜も、缶ビールが一本だけ開いて、日足が一本、確かめられている。
二年目の冬が静かに深くなっていく。
答え合わせの年が始まった。
山はまだ高い。誰もが天才で、誰もが山頂を信じている。だが遠くに、百六十円という古い停留所がふたたび視界に入り、長く埃をかぶっていた「介入」という言葉が、そっと払われ始める。そして春には、海の向こうの最高裁が、ひとつの判断を下すという——。答え合わせの年へ。
第5部「五兆ドルの山」完。第6部へ続く。第七弾は公開時期未定。
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