連載小説『為替の正体』· 第四弾 環境が回る 冬のいちばん深いところで、環境が一回、回る。世界でいちばん磨き上げられたものが、一日で史上最大の額だけ滝を落ちる——その滝を、この部屋だけがすんでのところで躱す。
第一弾〜第三弾の続き。二〇二四年の暮れから、二〇二五年の初め。日本の中央銀行がふたたび舵を切り、海の向こうで新しい大統領が就任する。 そして年明け、世界でいちばん磨き上げられたものが、一日で史上最大の滝を落ちる——第3部・全8節。
第28節|四万円の年の瀬
その年の暮れ、世界はまだ勝っていた。
トランプ・トレードの祭りは、秋から冬へ途切れることなく燃え続けていた。海の向こうの中央銀行は十二月にもう一度金利を下げたけれど、来年はそう何度も緩めない、という顔を見せた。日本の中央銀行は夏にあれだけ市場を揺らした手前、十二月は動かなかった。二つの国の金利差はまた開き、ドル円は百五十七円まで戻っていた。八月に百四十一円まで落ちた相場が四か月で十六円。誰も、あの夏の崖のことなど覚えていないみたいだった。
日経平均は四万円をうかがっていた。ビットコインは十万ドルの大台に手を伸ばしていた。街のイルミネーションの下を忘年会に向かう人たちが早足で過ぎていく。テレビは「史上最高値」という言葉を天気予報のように毎日読み上げた。
わたしはその年の暮れを二か月前とは違う目で見ていた。
八月に初めてこの部屋に来たとき、わたしは相場の数字が上がるか下がるかしか見ていなかった。いまは違う。数字の下にある理由が見える。理由に強い弱いがあることも、船が片側に傾いていくのが見えることも。──そして、この年末の輝きが、ただの祝祭ではなく、どこか無防備な高揚であることも。全員が勝っている。全員が「もう下がらない」と思っている。それは、七月の百六十円の船と同じ匂いがした。
思えば、長い半年だった。
七月にわたしは憎しみを鞄に詰めて、この部屋の扉を叩いた。父を呑んだ世界を暴いて、断罪してやるつもりで。八月に令和のブラックマンデーを見た。九月に石破ショックの往復ビンタを見た。十一月にトランプ・トレードの熱狂を見た。そのあいだにわたしの握りしめていた「為替は博打だ」という一枚岩はいくつもの割れ目を入れられ、砕けて、そして別のかたちに組み直された。憎しみは消えていない。ただ、その宛先が為替から、人を博打に変える構造へと移っただけだ。──それを拡張と呼ぶのか、諦めと呼ぶのか、わたしにはまだわからなかった。
年末になると、いろんな人から連絡が来た。
夏に書いた記事を読んだ、と言って電話をくれた人たちが、年の瀬にもう一度、声を聞かせてくれた。息子と連絡が取れないと言っていた、あの年配の女性からも、短い手紙が届いた。〈今年もあなたの記事を読みました。息子はまだ帰ってきません。でも、あなたが「戻らない人がいる」と書き続けてくれるあいだは、わたしは息子を忘れずにいられます〉。──真実で人は救えない。けれど、救えなかった人を忘れないでいることはできる。遅れて届く手紙は消えた人には届かないけれど、残された人のところには、こうして年に一度、静かに戻ってくる。
叔父の小宮さんからも、年末に電話が来た。
「おう、直美か。今年も、ちゃんとメシ食ってたか」いつもの豪快な声だった。「正月くらい、こっちに顔出せよ。餅でも食わせてやる」
「うん、行くよ」わたしは言った。「叔父さんこそ、体、大丈夫?」
「大丈夫に決まってるだろ。──なあ、直美。今年、株がえらい上がったってな。テレビでやってたぞ。四万円だとか」
わたしの心臓が小さく跳ねた。「うん、そうだね」
「ああいうのにみんな浮かれてるとな、ろくなことにならん」叔父は言った。「お前の親父も、上がってるときにいちばん喜んでた。──まあ、お前は書くだけだからいいけどな。近づくなよ、ああいうのには」
「わかってるよ。いちばんわかってる」
叔父は笑って、電話を切った。わたしは受話器を置きながら、いつものように思った。この人は為替は博打だと信じて疑わない。そして、その同じ人が油の染みた工場の二階で、いまも夜ごとにドル円の日足を見て、決めた額しか賭けず、生き延びている。姪のわたしはそれをまだ知らないことになっている。世界はときどきこんなふうにすぐ隣で繋がっている。気づかないだけで。
* * *
戦時室はその祭りの外で静かだった。
デスクはトランプ・トレードのドル高に秋から規律で乗っていた。天井で飛びつかず、押し目で拾い、静かに含み益を育てる。派手ではない。けれどその地道な勝ちが積み重なって、年初来の数字はようやく目標に近づいていた。八月の崖でダリが利確し、九月の政治の往復には乗らず、十月からのドル高に規律で乗った──その全部の結果として、馘首の二割の線はもう遠い過去になっていた。
「霧島さんは、最近来ませんね」わたしはケニーに言った。
「数字がいいときは、来ないんだ」ケニーはコインを転がしながら笑った。「あの人が顔を出すのは、線が近づいたときだけだ。いまは放っておかれてる。放っておかれてるうちが、いちばん平和なんだよ、この商売は」
その言葉にわたしは霧島の穏やかな目を思い出した。君はケニーをいい人だと思っている、それは半分だ──あの一言以来、わたしのノートには「霧島」と「ケニー」の名が並んだままだった。二人が昔なんだったのか。何百人を踊らせたというのは。掘れば部屋が壊れるかもしれない秘密はいまも凍った池の底に沈んでいた。祭りのあいだは、誰もその底を覗かない。
ジョーンズはその年の暮れも夜明け前から計算していた。ソープは検算していた。ダリは窓の外を見ていた。四人の日課は八月の崖の前も、十一月の熱狂のさなかも、この年末も、一ミリも変わらなかった。相場が恐怖でも熱狂でも、彼らは同じことを続けている。それが、この部屋がいつまでも生き残っている理由なのだと、わたしはもう知っていた。
ただ、その年末、わたしはジョーンズの意外な一面を見た。
彼はいつも夜遅くまで残っていた。ある晩、わたしが忘れ物を取りに戻ると、誰もいないはずの部屋にジョーンズがまだいた。ヘッドセットをつけて、モニターに向かって、小声で誰かと喋っている。相場の画面ではなかった。ゲームだった。何人かと繋がって、一緒に何かを攻略しているらしい。「ぴぴたん、そっち行った」「Userさん、それ罠だって」──昼間のあの早口で無表情な男とは、まるで別人だった。声が少しだけ弾んでいた。
わたしに気づくと、彼はばつが悪そうにヘッドセットを外した。
「……息抜きです」ジョーンズは言った。「昼は数字と喋る。夜は人と喋る。同じ画面でも、まるで違う。──ゲームの仲間です。ぴぴたんっていうのは、とんでもなく凝り性で、いつも最強の組み合わせを研究してる。Userさんは、ほとんど喋らないけど、たまに一言だけ、恐ろしく正しいことを言って、すぐログアウトする」
「楽しそうですね」わたしは言った。
「楽しいですよ」ジョーンズは少しだけ笑った。昼には見せない笑い方だった。「ゲームはいいです。負けても、誰も本当には死なない。──相場は負けると人が死ぬ。だから、昼のわたしは笑えない」
わたしはその言葉を胸にしまった。昼は数字と喋り、笑えない男。夜だけ、人と喋って笑う男。──この部屋の四人はみんなどこかにそういう夜の顔を隠しているのかもしれなかった。そして、そのジョーンズの夜の仲間たちが、ひと月もしないうちに彼に市場でいちばん大事な教訓をゲームの言葉で思い出させることになるとは、そのときのわたしは思ってもいなかった。
* * *
年の瀬のある夜、わたしはダリの隣に立った。
窓の外の街はいつもより明るかった。クリスマスの飾りと、年末の電飾。その光の海をダリは静かに見下ろしていた。
「きれいですね」わたしは言った。
「ええ」ダリは言った。「いちばん明るいときです。──だから、いちばん終わりに近い」
わたしはもう、その言い回しに慣れていた。お祭りはいちばん楽しいときがいちばん終わりに近い。彼女は十一月にもそう言った。全員が同じ側に乗っている船はいつか傾く、と。
「いつ来るんですか」わたしは訊いた。「その終わりは」
「わかりません」ダリは言った。「でも、近いのは確かです。──こういう相場の天井はね、記者さん、値段が下がって来るんじゃないんです。まず、理由が尽きるんです。買う理由が一つずつ消えていく。金利が上がるから買う。景気がいいから買う。新しい大統領が減税するから買う。──その理由がある日、全部出尽くす。もう新しい燃料がない。そのとき、ほんの小さな、誰も予想していなかった一押しで、船は傾きます。理由が尽きたところに想定外の一押し。それが天井です」
「想定外の一押しって、たとえば」
ダリはわたしのほうを見た。涼しい目の奥にいつもの川上を見る光があった。
「わかっていたら、想定外とは言いません」彼女は薄く笑った。「でも、経験から言えば、天井を割るのは、たいてい"誰も見ていなかった方向"から来ます。みんなが金利と景気ばかり見ているとき、まったく別の場所で、何かが静かに変わっている。──いまも、たぶんどこかで変わり始めています。世界中がトランプの減税とドル高に浮かれている、その裏側で。誰も見ていない場所で」
わたしはその夜、彼女の言葉を手帳に書きつけた。理由が尽きたところに想定外の一押し。誰も見ていない方向から。──そのときのわたしはその「誰も見ていない方向」が、為替でも金利でも景気でもなく、遠い国の小さな会社が作った、一つの人工知能だとは、まだ知らなかった。
年末にヒナと会った。
彼女は少し痩せていた。けれど、秋に会ったときのあの張り詰めた営業の笑顔とは、どこか違っていた。無理をしていない笑い方だった。
「わたし、来年、部署を替わろうと思ってるの」ヒナは言った。「営業成績、今年、がた落ちで。──"売らない"をあちこちでやりすぎて。上司には、もう見放されてる。でも、不思議とね、怖くないの」
「怖くない?」わたしは訊いた。
「うん」ヒナは言った。「秋にね、わたしが止めた若い子、覚えてる? 借金してビットコインを買おうとした子。あの子、結局よそで買ったみたいなんだけど。──先月、ばったり店に来てね。"あのとき止めてくれて、ありがとうございました"って。よそで買って、少し痛い目を見て、それで、あなたの言葉を思い出したって。全部は失わずに済んだって」
彼女の目が少し潤んだ。
「たった一人だよ」ヒナは言った。「わたしが今年、"売らなかった"ことで助けられたのたぶんたった一人。営業成績は最悪。会社の中では、負け組。──でも、その一人がね、わたしが今年やった仕事の中で、いちばん誇れる仕事だった。あなたの言う"遅れて届く手紙"って、こういうことなんだね」
わたしは頷いた。ヒナは変わっていた。構造のいちばん下っ端で、罪悪感に潰されそうだった彼女がいまは、その構造の内側で静かに逆らう一人になっていた。売らない。止める。たった一人でも、崖の手前で。──派手ではない。会社には評価されない。けれど、彼女もまた、この"潰しても湧く"構造の数少ない抗体の一人だった。わたしのノートの中で、ヒナの名前はもう「構造の下っ端」の欄にはなかった。「内側で逆らう人たち」の欄に静かに移っていた。
* * *
年が明けた。
二〇二五年。世界は勢いよく走り出した。年明けの相場は暮れの高揚をそのまま引き継いだ。ドル円は一時百五十八円台まで円安が進んだ。七か月ぶりの水準。株も強い。海の向こうでは、新しい大統領の就任式がもう目の前に迫っていた。世界中がその男が何を始めるのかを期待と一緒に待っていた。──減税。規制緩和。ドル高。株高。いい夢ばかりが語られていた。
年明け、わたしは編集部で松子に呼ばれた。
「今年の相場、どう見てる」松子は校正刷りから目を上げずに訊いた。わたしにこう訊くようになったのは、この半年で初めてのことだった。
「わかりません」わたしは正直に言った。「でも、デスクの人が言うには、みんなが同じ物語を信じきったときが、いちばん危ないそうです。いまの物語は"トランプで何もかも上がる"。きれいすぎる、と」
松子の赤ペンが止まった。彼女はわたしを見て、少しだけ口の端を上げた。
「あんた、変わったな」松子は言った。「去年の春に入ってきたときは、何もかも憎んでる顔してた。いまは、相場を"読もう"としてる顔だ。──いいか、七瀬。今年はその"きれいすぎる物語"がどこでほつれるかを追え。みんなが浮かれてるあいだにほつれの糸口を見つけておけ。祭りのさなかに次の崖を書ける記者は値打ちがある。祭りが終わってから書く記者はいくらでもいる」
わたしは頷いた。松子の言葉と、ダリの言葉と、ケニーの言葉がこの頃、同じ一つのことを別の言い方で言っているように聞こえるようになっていた。理由が尽きたところに想定外の一押し。きれいな物語ほど、一か所ほつれると一気にほどける。──みんなが同じ方向を見ているとき、誰も見ていない方向で、何かが静かに変わっている。
わたしはその年明けの戦時室で、四人がやはり静かなことに少し安心していた。世界がどれだけ浮かれても、この部屋の温度は変わらない。ジョーンズの消しゴムは机の上に置かれたまま。ソープの腕時計は机の縁と平行。ケニーのコインは規則正しく回り、ダリは窓を見ている。
「今年は」わたしはケニーに訊いた。「どんな年になりそうですか」
ケニーはコインを止めて、少し考えた。
「わからん」彼は言った。「だが、一つだけ言える。こんなに全員が"今年もいい年だ"と信じてる年はたいてい、途中で何かが起きる。──いいか、お嬢ちゃん。相場ってのは、みんなが同じ物語を信じきったときが、いちばん危ない。いまの物語は"トランプで、何もかも上がる"だ。きれいな物語だ。きれいすぎる。きれいな物語ほど、現実に一か所ほつれると、一気にほどける」
彼はコインをポケットにしまいながら、窓の外の晴れた一月の空を見た。
「今年、その物語がどこでほつれるか」ケニーは言った。「それを最初に見つけた奴が生き残る。──ダリはもうどこかを見てるみたいだけどな」
わたしはダリを見た。彼女は答えなかった。ただ窓の外の遠い空を見ていた。世界中が新しい大統領の就任を待っている、その同じ空のもっと向こうを。誰も見ていない方向を。
冬がいちばん深いところへ向かっていた。そして、その深いところで、世界がまだ名前も知らない小さな会社が静かに一つのものを完成させようとしていた。それがひと月もしないうちに世界でいちばん大きな会社の時価総額を一日で史上最大の額だけ吹き飛ばすことを──そして、この冷たい部屋の四人がその滝をすんでのところで躱すことを──わたしはまだ、知らなかった。
第29節|環境が回る
年が明けて数日後、わたしはもう一度、夜のジョーンズを見た。
その日はわざと遅くまで残っていた。彼のあの夜の顔をもう一度見たかったからだ。昼のジョーンズは市場でいちばん頭のいい、そしていちばん張り詰めた男だった。けれど夜になると、その張りがほどけて、別の誰かになる。わたしはその別の誰かのほうにこの部屋のいちばん柔らかい秘密が隠れている気がしていた。
案の定、九時を過ぎると、ほかの三人が帰り、ジョーンズはヘッドセットをつけた。わたしが隅の席にいることには気づいていたけれど、彼はもう追い出そうとはしなかった。
「見ますか」彼は言った。少し照れくさそうに。「昼の続きみたいなものです。ただし、こっちは、負けても誰も死なない」
わたしはパイプ椅子を彼の後ろに寄せた。
モニターに映っていたのは、複雑な世界だった。キャラクターがいて、装備があって、数字がいくつも並んでいる。攻撃力。防御力。何かの相性。ジョーンズの指は昼と同じ速さで動いていたけれど、その動きには、昼にはない、遊びの余白があった。
「ぴぴたん、来た?」ジョーンズがマイクに向かって言った。
「来た来た。ジョーンズさん、待ってましたよ」明るい声が返ってきた。若い男の声だった。「見て見て、新しいビルド組んだんすよ。理論値、過去最高。もう完璧。これで無敵っす」
* * *
ぴぴたん、というのがどういう人物なのか、わたしはその夜、少しずつ分かってきた。
彼はとにかく凝り性だった。ゲームの中のあらゆる組み合わせを研究して、いちばん強い「ビルド」——装備と能力の組み合わせのことらしい——を作ることに取り憑かれていた。何時間も、何十時間もかけて、数字を最適化する。理論上いちばん強い形を追い求める。その情熱はどこか昼のジョーンズが数字に向ける情熱と、よく似ていた。
「ぴぴたんは」ジョーンズが小声でわたしに言った。「私より、よほど凝り性です。この前なんか、たった〇・二パーセント強くなる組み合わせのために三日、徹夜していました」
「すごいですね」わたしは言った。
「すごい、というか」ジョーンズは苦笑した。「危ういんです。──見ていてください。彼はいま、"完璧なビルド"を作ったと言っている。でも、それは、いまの環境でだけ、完璧なんです」
その言葉の意味はしばらくして分かった。
ゲームには、ときどき「アップデート」が来る。運営がルールを少し変える。ある武器が弱くなったり、ある能力が強くなったり。プレイヤーはそれを「環境が変わる」とか「メタが回る」と呼ぶらしい。そして、その環境が一回変わると──それまで「最強」だったビルドが一夜にして、ただのゴミになることがある。
「それが来たら」ジョーンズは言った。「ぴぴたんの三日徹夜はぜんぶ無駄になります。彼が完璧に磨き上げた、その完璧さそのものが、環境が変わった瞬間に彼の足を引っ張る。──なぜだか、分かりますか」
「わかりません」
「磨きすぎたものは、一つの形にしか合わないからです」ジョーンズは言った。「いまの環境にぴったり、完璧に合わせて作る。合わせれば合わせるほど、その環境が終わったとき、何も残らない。ほどほどに強い、いろんな環境で戦えるビルドのほうが、長く生き残る。完璧なビルドは環境が回った瞬間にいちばん大きく死ぬ」
わたしはその言葉を手帳に書きつけた。──完璧なビルドは環境が回った瞬間にいちばん大きく死ぬ。それは、ゲームの話をしているようで、まるで別のことを言っているように聞こえた。
* * *
ヘッドセットの向こうで、ぴぴたん自身も、同じことを笑いながら言った。
「まあでも、俺のこのビルドも、次のアップデートで死ぬんすけどね」ぴぴたんは陽気に言った。「毎回そうっす。完璧なの作って、悦に入ってると、運営が環境変えてきて、はい死亡。──盛りすぎたビルドは環境が一回回れば、死ぬんすよ。分かってるんすけど、やめられないんすよね。完璧なの作りたくなっちゃう」
そのとき、それまで一言も喋らなかった、もう一人が口を開いた。
「ぴぴたんは」低い、抑揚のない声だった。「毎回それで死んでる。学習しない」
「Userさん!? いたんすか!」
「いた」Userと呼ばれた男はそれだけ言うと、「ログアウトする。おやすみ」と言って、本当にいなくなった。
わたしは思わず笑ってしまった。ジョーンズも笑っていた。昼には絶対に見せない、肩の力の抜けた笑い方だった。
「Userさんは、いつもあれです」ジョーンズは言った。「ほとんど喋らない。でも、たまに一言だけ、恐ろしく本質を突いて、すぐログアウトする。──不思議な人です。あの人が一言喋ると、たいてい、それが正解なんです」
わたしはその夜の戦時室の思いがけない温かさを長いこと覚えていた。昼はあれほど冷たく、張り詰めていた男が夜には、こんなふうに笑う。凝り性のぴぴたんがいて、無口なUserがいて。相場とはまるで関係のない、負けても誰も死なない世界。──けれど、そこで交わされた「盛りすぎたビルドは環境が回れば死ぬ」という言葉がひと月もしないうちにこの部屋の運命を分ける教訓になるとは、そのときのわたしは思ってもいなかった。
* * *
その同じ頃。市場では、新しい商品が売れていた。
わたしは取材で、いくつもの配信をまた覗いた。夏は「相場が上がる」を売っていた。秋は「選挙で上がる」を売っていた。そして冬のこの年明けに売られていたのは、「AIが稼ぐ」だった。
〈もう、人間が相場を張る時代は終わり。AIが二十四時間、自動で稼ぎます〉〈最新のAI搭載、自動売買システム。過去十年のデータで、勝率九割。あなたは寝ているだけ〉〈月額三万円で、AIがあなたの代わりに億を稼ぐ〉。──画面には、右肩上がりのきれいなグラフが並んでいた。過去のデータに当てはめると、どのシステムも、面白いように勝っていた。
わたしはそのグラフをジョーンズに見せた。
彼は三秒だけ見て、目を戻した。昼のあの早口に戻っていた。
「過剰最適化です」彼は言った。「ぴぴたんの完璧なビルドと、同じです。──このAIは、過去十年のデータに完璧に合わせて作られている。だから、過去に当てはめると、面白いように勝つ。当たり前です。答えを知っている問題を解いているんだから。でも、明日の相場は過去十年のデータには入っていない。環境が回った瞬間にこの"勝率九割"は、ただのゴミになる」
「でも、勝率九割って」わたしは言った。「すごく見えます」
「過去に対しての九割です」ジョーンズは言った。「未来に対しては、誰にも分からない。──いいですか。過去に完璧に当てはまるシステムほど、危ないんです。それは、その過去にしか合わないように磨きすぎているから。私が昔、一度死んだのも、それでした。私の戦略はある時期の相場に完璧に合っていた。だから、よく効いた。効きすぎた。そして、相場が——環境が——回った瞬間にその完璧さが、そのまま私の墓穴になった。OOS。アウト・オブ・サンプル。磨き上げた過去の外側で、戦略は死ぬんです」
彼の声には、いつもの早口の底に何か、古い痛みがあった。それは、彼が一度死んだときの痛みだった。効いていた戦略がある日ぱたりと効かなくなった、あの屈辱。市場に追い越された、あの無力感。──そして、いま、市場全体がその同じ罠に片足を突っ込もうとしていた。世界中が「AIは上がり続ける」という一つのビルドに有り金を完璧に合わせていた。誰も、環境が回ることを考えていなかった。
* * *
その夜、わたしはダリにも、その話をした。
「配信者がAIの自動売買を売っています」わたしは言った。「過去のデータで勝率九割だと。ジョーンズさんは、過剰最適化だ、環境が回れば死ぬ、と」
ダリは窓辺で、静かに頷いた。
「ジョーンズの言うとおりです」彼女は言った。「でも、本当に怖いのは、配信者のあの小さなシステムじゃありません。──市場全体がいま、一つの巨大なビルドになっているんです。AI。半導体。それさえ持っていれば、勝てる。世界中の投資家がその一つの物語に資産を完璧に合わせている。ある一社の株が世界でいちばん大きな会社になるほどに」
彼女はわたしのほうを見た。
「これも、盛りすぎたビルドです」ダリは言った。「いまの環境では、完璧です。AIは伸びる。半導体は足りない。だから買う。正しい。これまでは、正しかった。──でも、環境が回ったら? もし、誰かが、"高いAIなんて要らない、安いAIで十分だ"と証明したら? そのとき、この世界でいちばん磨き上げられたビルドがいちばん大きく死にます。ぴぴたんの三日徹夜のビルドと、同じように」
わたしは背筋が寒くなった。
「そんなこと、起きるんですか」わたしは訊いた。
「わかりません」ダリは言った。「でも、天井を割るのは、いつも誰も見ていない方向からです。みんなが金利と、景気と、選挙ばかり見ているとき。──いま、世界中の誰も見ていない場所で、誰かが、静かに"安いAI"を完成させているかもしれない。それが来たら、環境が一回、回ります。そのとき、いちばん完璧に磨き上げた者がいちばん大きく、滝を落ちる」
窓の外は晴れた一月の夜だった。世界はまだ、トランプの就任と、AIの祭りに浮かれていた。誰も、遠い国の小さな会社の名前を知らなかった。──けれど、環境はもう静かに回り始めていた。
第30節|就任
一月二十日。海の向こうで、新しい大統領の就任式があった。
四年ぶりの返り咲き。テレビは朝からその映像を流し続けた。就任演説。パレード。次々に署名される大統領令。市場が待ち望んでいた男がついに世界でいちばん大きな国の舵を握った。減税。規制緩和。アメリカ第一。──市場はその一つ一つに拍手を送るように上がった。ドル円は百五十八円台をつけた。七か月ぶりの円安。株も高い。世界中が「新しい時代が始まる」と言っていた。
戦時室でも、その就任式は壁のモニターの片隅で流れていた。けれど四人はそれをほとんど見ていなかった。ケニーだけが、コインを転がしながら、ときどき視線を投げていた。
「新しい時代、だとよ」ケニーは言った。誰にともなく。少し笑いながら。「俺はこの言葉を四十年で、何度聞いたかな。──"今回は違う"。相場でいちばん高くつく四文字だ。バブルのときも、みんな言ってた。今回は違う、と。ITのときも言ってた。今回は違う、と。そのたびに違わなかった」
「でも」わたしは言った。「今回は本当にいろいろ上がってますよ」
「上がってるさ」ケニーは言った。「だから、みんな信じる。──いいか、お嬢ちゃん。"今回は違う"が危ないのは、嘘だからじゃない。半分、本当だからだ。減税はやる。株は上がる。それは本当だ。本当のことが、人を油断させる。全部が嘘なら、みんな警戒する。半分本当だから、誰も疑わない。そして、残りの半分に崖が隠れてる」
* * *
その日の夜、わたしはダリに訊いた。
「みんな、減税で株が上がると信じています」わたしは言った。「ダリさんは、どう見てるんですか」
ダリは窓辺で、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「あの新しい大統領は」彼女は言った。「二つの武器を持っています。市場はいま、その片方しか見ていません」
「片方?」
「減税と、規制緩和」ダリは言った。「これは、優しい武器です。株が上がる。景気が沸く。みんなが喜ぶ。市場はこの武器だけを見て、浮かれている。──でも、あの人には、もう一つ、武器があります。関税です」
関税。──わたしはその言葉を初めて、彼女の口から聞いた。
「関税は」ダリは言った。「優しくない武器です。よその国の品物に高い税金をかける。すると、その品物の値段が上がる。物価が上がる。物価が上がると、金利を下げにくくなる。金利が下がらないと、いつか、株の重荷になる。──それに関税をかけられた国は黙っていません。やり返す。世界中で、品物の奪い合いと、報復の応酬が始まる。それは、減税のきれいな夢とは、正反対の荒れた世界です」
「それも、上がるんですか」わたしは訊いた。
「わかりません」ダリは言った。「短い目で見れば、関税はドルを強くするかもしれない。よその通貨を売って、ドルに逃げる動きが出るから。でも、長い目で見れば、関税はあらゆるものを不安定にします。──いまの市場は減税の夢だけを見て、関税の牙を見ていない。あの人はまだ優しい武器しか抜いていない。就任したばかりだから。でも、いつか、もう一つの武器を抜きます。それが、たぶん春です」
彼女はわたしのほうを見た。涼しい目の奥にいつもの光があった。
「本当の嵐は関税です」ダリは言った。「春に来ます。──でも、それは、まだ先。その前にもっと近い、小さな亀裂が来ます。誰も見ていない方向から。たぶん、もうすぐそこに」
* * *
わたしはその夜、二つのことを手帳に並べて書いた。
一つは、遠い嵐。関税。春。減税の夢の裏に隠れた、もう一つの武器。──もう一つは、近い亀裂。誰も見ていない方向から、すぐそこに来る、小さな何か。ジョーンズがゲーム部屋で言った、"環境が回る"。ダリが言った、"安いAIが、高いAIを殺したら"。
わたしはその二つを見比べて、奇妙な感覚に囚われた。世界中がたった一つの方向——減税で、AIで、何もかも上がる——を見て、拍手している。そのみんなが見ている方向のちょうど反対側にダリは二つの影を見ていた。近い影と、遠い影。誰も、その影を見ていなかった。見ているのは、この窓辺の魔女だけだった。
わたしはダリの"早すぎる"の正体をまた一つ、理解した気がした。彼女はいつもみんなが見ている方向の反対を見ている。だから、早すぎる。だから、みんなが拍手しているときにひとり、暗い顔をする。そして、みんなが悲鳴を上げる頃には、彼女はとっくに次の方向を見ている。──見えるということは、祝福ではなかった。それは、みんなと同じ物語を信じられない、という孤独だった。
* * *
就任から数日、市場はまだ、いい夢の中にいた。
ドル円は百五十八円近辺で、高値を保っていた。株は四万円をうかがい続けた。ビットコインは十万ドルの大台に乗った。配信者たちは、あいかわらず「トランプ相場、まだまだ上がる」「AIで億り人」を売っていた。ヒナの店の行列は少し落ち着いたけれど、それでも、新しい口座を作りに来る人は途切れなかった。
わたしはその週、シームからメッセージをもらった。
〈ブリンさんのデスク、いま、AI関連に大きく張ってます。半導体、テック株、ドル。減税とAIの物語に全部、賭けてる。レバレッジも高い。──僕は少し、怖い。八月を思い出すんです。あのとき、金曜にレバレッジを上げて、月曜に轢かれた。今度も、同じ匂いがする。でも、ブリンさんは、"今回は物語が強い"って。今回は違う、って〉
今回は違う。──ケニーがいちばん高くつく四文字だと言った、その言葉をヘリオスのあの冷たい男も、口にしていた。わたしは背筋が寒くなった。速さで、規律に量で勝ってきたブリンが。八月の教訓を忘れかけている。あるいは、忘れたふりをして、物語に賭けている。
わたしはその週末、戦時室で、その話をした。
「ヘリオスがAIに大きく張っているそうです」わたしは言った。「レバレッジも高いと」
ソープが電卓から目を上げずにぽつりと言った。
「そうか」彼は言った。「では、環境が回ったとき、いちばん大きく死ぬのは、あそこだ」
彼はそれ以上は言わなかった。腕時計を机の縁と平行に直した。──最悪を先に払え。ずれを許すな。彼の癖はこの年明けも、一ミリも変わっていなかった。世界が就任の祭りに浮かれている、その裏側で、この部屋だけが、来るべき"環境の回転"に静かに備えていた。
窓の外は深い冬だった。ダリの言う、冬のいちばん深いところ。祭りの絶頂のすぐ裏側。そして、その深いところで、世界がまだ名前も知らない小さな会社がいよいよ、その"安いAI"を世に出そうとしていた。あと数日で、環境が一回、回る。世界でいちばん磨き上げられたビルドが一日で、史上最大の額だけ、滝を落ちる。──それをこの部屋だけが、すんでのところで、躱すことになる。
第31節|日銀の転換
一月二十四日。日本の中央銀行が動いた。
政策金利を〇・五パーセントへ引き上げた。十七年ぶりの水準だという。夏にあの令和のブラックマンデーの引き金の一つになって以来、慎重に構えていた中央銀行がついにもう一段、金利に手をかけた。──それは、半年前の夏にダリが窓辺で予言していたことの続きだった。あの国の中央銀行はいつか、利上げに踏み込む。日本円を売ってドルを買えば儲かる、その理由が両側から削られていく。
わたしはその日、戦時室にいた。
発表の瞬間、ドル円が動いた。円高方向へ。百五十六円台から、するすると下げて、一時、百五十五円を割った。利上げ。金利差が縮む。教科書どおりなら、円が買われる。市場はまず、その教科書のとおりに動いた。
「来ましたね」わたしはダリに言った。少し、興奮していた。「利上げ。円高。ダリさんが、夏に言ったとおり」
「まだ、喜ばないでください」ダリは静かに言った。「会見があります」
その言葉のとおりだった。しばらくして、総裁が記者会見に立った。そして、慎重な言葉を選んだ。急いで次をとは言わない。経済を見ながら、ゆっくりと。──その慎重さを市場は「まだ、そんなに利上げは続かない」と受け取った。すると、円高に振れていた相場が逆流した。百五十五円台から、百五十六円台へ。一時、百五十六円五十銭近くまで、円安が戻った。結局、その日のドル円は百五十五円八十銭あたりで引けた。朝の値段と、ほとんど同じ場所だった。
一日で、上げて、下げて、始まった場所に戻る。往復だった。
* * *
「見たか」ケニーがコインを転がしながら言った。「利上げで円高、って飛びついた奴は会見でやられた。会見で円安、って飛びついた奴はたぶん明日やられる。──中央銀行が動いた直後のあの往復はいちばん危ない。上にも下にも、飛びつく奴を順番に叩き落とす」
「デスクは乗らなかったんですね」わたしは言った。
「乗らん」ケニーは言った。「夏に同じものを見た。七月に指標と介入で、相場が四円落ちて、すぐ戻った。あのときも、飛びついた奴が焼かれた。ダリはあのとき、絶好の値段が通り過ぎても、指一本、動かさなかった。──覚えてるか。今日も、同じだ。中央銀行の一手で出た、あの一瞬の値段は相場の意思じゃない。ただの反射だ。反射に賭けるな」
わたしは覚えていた。第1部のあの七月十一日の夜。介入で相場が滑り落ちても、ダリは売らなかった。これは当局の手だ、相場の足じゃない、と。──半年経って、同じことを彼女はまた、していた。中央銀行が動いても、その直後の反射には、乗らない。同じ規律。同じ一貫性。この人たちは、いつも同じことをしている。
「でも」わたしはダリに訊いた。「今日の利上げ、意味がないわけじゃ、ないですよね」
「意味は大きいです」ダリは言った。「今日、この一日の値段は往復で、消えました。でも、地形は変わったんです。──夏から、秋、冬と、相場を動かしてきたのは、政治でした。選挙。就任。減税の夢。金利は脇役でした。でも、今日、日本の中央銀行がもう一段、金利を上げた。金利がまた主役に戻ってこようとしている。わたしの季節が戻ってこようとしているんです」
* * *
わたしの季節。──ダリがそう言うのをわたしは初めて聞いた。
夏に彼女は大きな賭けをして、勝った。令和のブラックマンデーで、半年の出血を報われた。けれど、それ以来、彼女はずっと、影に隠れていた。政治の秋には、出番がない、と言って。窓を見て、待っていた。──そして、いま、金利が主役に戻ってこようとしている、その気配を彼女は誰よりも早く、嗅ぎつけていた。
「地形が動く、というのは」わたしは訊いた。「どういうことですか」
「円が巻かれた、ということです」ダリは言った。「今日の利上げで、円高になる理由が一つ、増えました。でも、市場はまだトランプの減税と、AIの夢に夢中で、円高の理由を真剣に見ていない。だから、往復で、消えた。──でも、理由は消えていません。ただ、まだ引き金が引かれていないだけです。ばねが、静かに巻かれている。円高のばねが。金利差の縮小という、ばねが」
彼女は窓の外を見た。
「ばねは」ダリは言った。「引き金さえ引かれれば、一気に弾けます。今日みたいな、中央銀行の会見じゃ、引き金にはならない。市場が減税とAIに夢中だから。──でも、もし、その"減税とAIの夢"のほうが、崩れたら? そのとき、逃げ場を求めた金がいっせいに円に戻ってくる。巻かれていた円高のばねと、リスクを避けて円に逃げる動きが、同じ方向で、重なる。そうなったら、円は往復じゃ、済みません」
わたしはその言葉を手帳に書きつけた。円高のばねが、静かに巻かれている。──そして、それを弾く引き金は金利でも、中央銀行でもない。減税とAIの夢の崩れる音。ジョーンズが言った、環境の回転。ダリが言った、安いAI。誰も見ていない方向から来る、小さな亀裂。──二つのものが、いま、同じ一点に向かって、近づいていた。巻かれたばねと、それを弾く引き金が。
* * *
その週末、戦時室の空気が少しだけ、変わった。
派手なことは、何も起きていなかった。相場はまだ高値圏にいた。ドル円は百五十五円台。株は四万円をうかがう。世界はまだ就任の祭りの中にいた。──けれど、この部屋の四人だけが、何か、来るべきものの気配に耳を澄ませているのが、わかった。
ジョーンズの机の上の数字がその週末、初めて、警戒の色を灯していた。
「妙です」彼は言った。早口で。「価格には、まだ何も出ていません。株は高い。ドルも高い。トレンドはまだ上向きです。──でも、私のシステムのいちばん奥の指標がざわついている。市場の底のほうで、何かが、いつもと違う手をつなぎ始めている。株と、金利と、為替のいつもの相性が少しずつ、ずれ始めている。八月の前に見たのと、似た、ざわつきです」
ソープが電卓から目を上げずに言った。
「では」彼は言った。「そろそろだ」
彼はそれだけ言うと、腕時計を机の縁と平行に直した。──そろそろ、最悪を先に払う時だ。その静かな一言が部屋の温度をまた一度、下げた。世界が就任の祭りに浮かれ、円の利上げが往復で消え、誰もが「今年もいい年だ」と信じている、その週末に。この部屋だけが、巻かれたばねと、近づいてくる引き金の二つの気配に静かに身構えていた。
窓の外は冬のいちばん深いところだった。ダリの言った、そのど真ん中。そして、その深いところで、遠い国の小さな会社がいよいよ、その"安いAI"を世界に向けて、公開しようとしていた。あと、数日だった。環境が一回、回るまで。巻かれたばねが、弾けるまで。
第32節|予兆
利上げのあった金曜のその週末。デスクは休まなかった。
相場はまだ高値圏にいた。ドル円は百五十五円台。株は四万円をうかがっていた。世界は就任の祭りと、AIの夢のまっただ中にいた。普通なら、勝っているデスクが週末にすることなど、何もない。──けれど四人はその週末、静かに動いていた。持っている玉を少しずつ、減らしていた。
勝っている玉をだ。
「なぜ、減らすんですか」わたしは訊いた。「まだ、上がってるのに。含み益も、出てるのに」
「出てるからだ」ソープが端末を見ながら言った。感情のない声で。「利が乗っているうちに軽くする。負けてから軽くするのは、ただの狼狽売りだ。勝っているうちに自分の意思で、軽くする。──これは、逃げじゃない。準備だ」
「何の準備ですか」わたしは訊いた。「何が来るんですか」
ソープは初めて、少しだけ、手を止めた。
「わからない」彼は言った。
わたしはその答えに戸惑った。わからない。──最悪を先に払う、と言いながら、その最悪が何なのか、わからない。
「わからないんですか」わたしは訊いた。「それなのに勝ってる玉を減らすんですか」
「何が来るかは、わからない」ソープは言った。「だが、来る形はわかる。──ジョーンズの指標がざわついている。市場の底で、いつもの相性がずれ始めている。株と、金利と、為替がいつもの手をつながなくなっている。それは、何かが、水面下で、限界まで、張り詰めている、という合図だ。ばねが、巻かれきっている。何が引き金を引くかは、わからない。だが、巻かれきったばねは、いつか、必ず、弾ける。だから、その前にそばを離れる。引き金の正体を当てる必要はない。張り詰めている、とわかれば、十分だ」
* * *
それが、この部屋のいちばん深いところにある哲学なのだと、わたしはその週末にようやく理解した。
彼らは、未来を当てようとはしていなかった。何が起きるかを予言しようとはしていなかった。ただ、いまの相場が脆いか、頑丈かを見ていた。脆いとわかれば、それが何で壊れるかを知らなくても、そばを離れる。頑丈なあいだは、乗る。──当てることと、備えることは、別のことだった。世間は当てる人を天才と呼ぶ。この部屋は当てない。ただ、脆さを察して、静かに降りる。
ジョーンズがモニターを見ながら、言った。早口だったけれど、その声には、いつもの自信とは違う、緊張があった。
「私にも、何が来るかは、わかりません」彼は言った。「でも、いまの市場は一つの物語に寄りかかりすぎています。AIは伸びる。半導体は勝つ。だから買う。世界中がその一つのビルドに資産を完璧に合わせている。──ぴぴたんの完璧なビルドと、同じです。いまの環境では、無敵に見える。でも、環境が一回、回ったら」
「回ったら?」わたしは訊いた。
「いちばん完璧に合わせた者から、順番に死にます」ジョーンズは言った。「そして、いまの市場ほど、一つのビルドに完璧に合わせきった市場を私はあまり、見たことがありません。──だから、怖い。何が来るかは、わからない。でも、来たときの落ち方が怖い」
ダリが窓辺で、静かに頷いた。
「わたしの読みも、同じです」彼女は言った。「引き金の正体はわたしにも、見えません。でも、地形は見えます。円高のばねが、巻かれている。株は一つの夢に寄りかかりすぎている。この二つが、もし、同じ瞬間に同じ方向で、弾けたら──それは、八月に似た日になります。いえ、八月より、静かに始まって、八月より、速く、来るかもしれません」
* * *
けれど、わたしの中には、疑いも、あった。
「もし」わたしは思い切って訊いた。「もし、何も、来なかったら? デスクは勝ってる玉を減らして。それで、相場がそのまま、上がり続けたら。──ただの取り越し苦労になりませんか。儲け損ねる、だけに」
部屋が少し、静かになった。それは、いい質問だった、という沈黙だった。
「なるかもな」ケニーがコインを転がしながら、言った。「実際、そうなることも、多い。備えて、何も来なくて、儲け損ねる。十回のうち、七回はそうだ。俺たちは、その七回、ヘリオスや、飛びついた連中に儲けで、負ける。──だが、残りの三回で、あいつらが飛んで、俺たちが生き残る。その三回のために七回の儲け損ねを払う。それが、この商売の授業料だ」
「割に合うんですか」わたしは訊いた。
「合う」ケニーは言った。「なぜなら、飛んだら、ゼロだからだ。七回、儲け損ねても、口座は減らない。だが、一回、飛んだら、口座はゼロになる。ゼロから先は複利も、何も、ない。──七回の儲け損ねと、一回のゼロ。どっちが、重いか。答えは、決まってる。だから俺たちは、七回、格好悪く、儲け損ねる。生き残るってのは、格好悪いことなんだ、お嬢ちゃん。派手に当てるより、ずっと地味で、ずっと悔しい」
わたしはその言葉を胸に刻んだ。生き残るのは、格好悪い。──七回の儲け損ねを払って、一回のゼロを避ける。世間が賞賛する、派手な的中のちょうど裏側にある、地味で、悔しい、規律。それが、この部屋が七月の百六十円から、八月の崖から、秋の往復から、生き延びてきた、たった一つの理由だった。
* * *
その週末、シームから、またメッセージが来た。
〈ブリンさんのデスク、さらに積み増しました。AI、半導体、ドル。週末のうちにレバレッジをもう一段。"押し目は買い場だ"って。──僕は止めようとしました。でも、ブリンさんは、笑ってました。八月に被弾したときも、すぐ拾い直して、結局、年間ではいちばん稼いだ。今回も、そうなる、って。物語は強い、って。──でも、あなたのデスクは逆に減らしてるんですよね。同じ相場を見て、正反対のことをしてる。どっちが、正しいんでしょう〉
わたしはその問いに答えられなかった。
同じ相場を見て、ヘリオスは積み増し、デスクは減らす。片方は物語を信じて、乗る。もう片方は脆さを察して、降りる。──どちらが正しいかは、月曜になれば、わかる。何も来なければ、ヘリオスが正しい。何かが来れば、デスクが正しい。けれど、それは、勝ち負けの問題ではなかった。それは、生き方の問題だった。当てにいくか、飛ばないか。物語に賭けるか、脆さに備えるか。──ブリンとダリは同じ相場を見ながら、まったく違う世界に生きていた。
日曜の夜が更けていった。
相場はまだ静かだった。ドル円は百五十五円台で、凍りついていた。株の先物も、大きな崩れは、見せていなかった。世界はまだ何も、知らなかった。遠い国の小さな会社がその週末のうちに世界に向けて、一つのものを公開したことを。それが、月曜の朝、世界でいちばん大きな会社の時価総額を一日で、史上最大の額だけ、吹き飛ばすことを。
わたしは八月のあの日曜の夜を思い出していた。あのときも、こんなふうに静かだった。誰もいないはずの戦時室に四人がいて。最悪を先に払い終えて。ただ、月曜を待っていた。──いま、また同じ夜が来ていた。デスクは玉を軽くし終えて、静かに身構えていた。世界が就任とAIの祭りに浮かれきった、その日曜の夜に。
月曜が来る。
第33節|ディープシーク
最初はただの小さなニュースだった。
週明けの朝、経済ニュースの隅に聞いたことのない名前が出ていた。中国の小さな会社。作った人工知能がアメリカのいちばん有名なやつに匹敵するらしい。しかも、開発費はけた違いに安い。数百万ドル。アメリカの巨大企業が何十億ドルもかけて作っているものを二か月で、八億円ほどで作ったという。
わたしはその記事を読んでも、正直、何とも思わなかった。技術のことは、わからない。すごいのか、大げさなのか、判断がつかない。──たぶん、世界中のほとんどの人がその朝、わたしと同じだった。ふうん、で読み飛ばした。
市場が意味を理解するまでに少し、時間がかかった。
午前中は静かだった。ドル円は百五十五円台。株も、大きくは動かない。デスクの四人も、いつもどおりだった。──けれど、昼を過ぎたあたりから、モニターの数字の色が変わり始めた。
誰かが、気づいたのだ。もし、安いAIで十分なら。何十億ドルもかけて、高い半導体を買い込んでいる、あの投資はなんだったのか、と。
* * *
午後、海の向こうの市場が開くと、それは、雪崩になった。
半導体のあの世界でいちばん大きくなった会社の株が崩れ落ちた。前の週の終値から、一割五分。一日で。時価総額が五千八百九十億ドル、消えた。一社が一日で失った額として、史上最大だった。数字が大きすぎて、わたしには、実感が湧かなかった。ジョーンズがぽつりと、「日本のそこそこの上場企業が二百社くらい、一日で、消えた勘定です」と言って、初めて、背筋が寒くなった。
ナスダックはその日、過去最悪の一日を刻んだ。
ドル円が動いた。速かった。百五十五円台から、百五十四円、百五十三円へ。株が崩れ、リスクを避けた金がいっせいに安全とされる場所へ逃げた。円が買われ、債券が買われた。ダリの言っていた、二つのものが、同じ瞬間に重なった。利上げで巻かれていた、円高のばね。そして、AIの夢が崩れて、リスクを避けて円に逃げる動き。──ばねが、弾けた。ドル円は一時、百五十三円七十一銭。十二月の半ば以来の円高だった。
戦時室は静かだった。
崩れていく画面を四人が見ていた。デスクは週末のうちに玉を軽くしていた。だから、この雪崩の中で、失うものが、ほとんどなかった。含み益は削られたけれど、致命傷はどこにもなかった。──勝った、というのとは、違った。誰も、拳を突き上げなかった。ただ、生きていた。それだけだった。
わたしはジョーンズを見た。
彼は崩れていく半導体株の数字をじっと見ていた。その横顔に勝ち誇りは、なかった。むしろ、何か、遠いものを見るような、目をしていた。
「これが」彼は小さく言った。「私に起きたことです。昔」
それだけだった。彼はそれ以上、説明しなかった。けれど、わたしには、わかった。かつて彼の戦略を殺した、あの"環境の回転"が、いま、世界でいちばん大きな会社の上で、同じことをしていた。完璧に磨き上げたものが、環境が回った瞬間にいちばん大きく死ぬ。彼が一人で味わった屈辱をいま、世界中が同時に味わっていた。──彼はそれを勝ち誇るには、その痛みを知りすぎていた。
* * *
その日、いちばん賑やかだったのは、崖の外だった。
あの「AIが二十四時間、自動で稼ぐ」を売っていた配信者たち。「勝率九割」の自動売買システム。過去十年のデータに完璧に合わせて作られた、あの右肩上がりのグラフ。──それが、この日、いっせいに火を噴いた。
過去十年に"安いAIが高いAIを殺す日"は、入っていなかった。だから、システムはその日を知らなかった。知らないものにぶつかったシステムは無防備だった。ある自動売買は崩れる相場を「押し目」と判断して、買い続け、溶けた。別のは、パニックで、いちばん安いところで、投げた。「AIにお任せ」で寝ていた人たちが、起きたら、口座が半分になっていた。
SNSは、地獄と、喜劇のあいだだった。〈AI、仕事しろ〉〈勝率九割、どこ行った〉〈先生のボット、爆死〉〈寝てただけで、資産が溶けてた〉。
その夜、わたしはジョーンズのゲーム部屋の声をまた聞いた。彼が息抜きに繋いでいたのだ。仲間たちも、その日の相場を知っていた。
「うわ、見ました? あのAI株の落ち方」ぴぴたんの興奮した声。「あれ、完全に環境回ったやつっすよ。みんな、同じ最強ビルド組んでたから、一斉に死んだ。ゲームと、まったく同じっす。盛りすぎたビルドは環境が回れば死ぬ。何回言ってもみんなやるんすよね〜」
そして、あの無口なUserが、ひとこと言った。
「あれは、押し目じゃない」低い、抑揚のない声だった。「滝だ」
それだけ言うと、Userは「ログアウトする。おやすみ」と言っていなくなった。
わたしは思わず、笑ってしまった。ジョーンズも、笑っていた。その日、初めての笑いだった。──何十億ドルが消えた日に。世界中が青ざめた日に。ゲーム部屋の無口な男のたった一言がいちばん正確にその日の相場を言い当てていた。あれは、押し目じゃない。滝だ。プロのどんな解説より、短くて、正しかった。
* * *
ヘリオスからは、その夜、連絡がなかなか、来なかった。
シームからのメッセージが届いたのは、夜中を回ってからだった。
〈今日、うちのデスク、やられました。ブリンさんが、AIに高レバで、全張りしてたので。──でも、いちばんこたえたのは、それじゃないんです〉
わたしは続きを待った。
〈ブリンさん、最初、これを"押し目"だって言ったんです〉シームは書いていた。〈落ち始めたとき、"安いAIなんて、まがい物だ、すぐ見直される、ここは買い場だ"って。それで、下げる相場を買い増した。機械みたいに冷静に。でも、下げは、止まらなかった。買い増したぶんも、溶けた。──あのいつも冷たくて、何が起きても顔色一つ変えないブリンさんが、今日、夕方、モニターの前で、長いこと、動かなくなってたんです。ずっと、"物語は強いはずだ"って、小さい声で、言ってた〉
わたしはその文面を二度、読んだ。
ブリン。感情のない、速さの権化。八月に被弾しても、傷一つない顔で拾い直した、あの男。──その男が今日、自分の作った物語に飲まれていた。安いAIは、まがい物だ。すぐ見直される。押し目だ。買い場だ。それは、桑原さんが言っていたことと、そっくりだった。ヒナの店の客が言っていたことと。父が言っていたことと。──ブリンは群衆を機械で狩る、捕食者だった。なのに今日、彼は群衆と、まったく同じ言葉をつぶやいていた。ただ、誰よりも速く、誰よりも大きく、その罠に落ちながら。
冷たいことと、賢いことは、違うのだと、わたしはその夜、初めて思った。ブリンは冷たかった。けれど、自分の物語だけは、疑えなかった。感情がない、と思っていた男がいちばん自分の信じたい物語に感情的にしがみついていた。──彼は化け物では、なかった。ただ、速い、人間だった。速い人間が自分の速さで、自分の物語ごと、崖を駆け下りていた。
* * *
夜が更けて、相場はいったん、底を打った。
ドル円は百五十三円台で、下げ止まった。株の先物も、投げが一巡した。世界はまだこの日の意味を消化しきれていなかった。安いAIは、本物なのか。革命なのか、過大評価なのか。誰にも、わからなかった。わからないまま、ただ五千八百九十億ドルが消えた事実だけが、残った。
ダリが窓辺で、静かに言った。派手なことは、何も言わなかった。ただ、事実だけを。
「躱しましたね」
「はい」わたしは言った。
「でも、これは、まだ亀裂です」ダリは言った。「崩壊じゃ、ない。明日、また戻るでしょう。"安いAIは、まがい物だ"と、みんなが、もう一度、信じ直して。──今日、消えたお金のいくらかは、戻ってきます。でも、今日、退場した人は戻ってきません。それは、いつもと、同じです」
彼女はそれ以上は言わなかった。窓の外の冬の夜を見ていた。
わたしはこの日のことをどう書こうか、考えていた。史上最大の時価総額の消失。過去最悪のナスダック。──でも、わたしがいちばん書きたかったのは、その数字ではなかった。ゲーム部屋の無口な男の「あれは滝だ」でもなかった。それは、あの冷たいはずのブリンがモニターの前で、「物語は強いはずだ」と、小さくつぶやいて、動けなくなっていた、その姿だった。──いちばん速く、いちばん冷たく、いちばん賢いはずの男がいちばん自分の物語から、逃げられなかった。人はみんな、そうなのかもしれなかった。速さも、冷たさも、賢さも、自分の信じたい物語の前では、たいして、役に立たない。
第34節|滝のあと
翌日、世界はけろりとしていた。
あれだけ崩れた半導体株が朝から、戻し始めた。理由は単純だった。「安いAIなんて、まがい物だ。すぐ見直される」「AIは、死んでない」──前の日、青ざめて投げた人たちが、その翌日には、もうそう言って、買い直していた。SNSは、手のひらを返していた。〈やっぱりAIは強い〉〈昨日、底で投げた奴、ご愁傷さま〉〈握力の勝利〉。二十四時間前の悲鳴はなかったことになっていた。
わたしはそのあまりの切り替えの早さに笑うしかなかった。人は痛みをこんなにも早く忘れる。そして、忘れたぶんだけ、次も、同じところで、つまずく。
その週の金曜、わたしは久しぶりに藤森さんの店へ行った。重い一週間だった。炭の匂いと、あの二人の漫才が無性に恋しかった。
案の定、クマノフがもうカウンターの端で、赤ワインを三杯目くらい、やっていた。
「七瀬ちゃん! 聞いてくれよ!」わたしを見るなり、クマノフが叫んだ。「俺、今週、歴史的なことをやったんだ!」
「また何か、溶かしたんですか」わたしは笑いながら席についた。
「溶かした、なんてもんじゃない」クマノフは胸を張った。なぜか、誇らしげだった。「あのAIの暴落の日な。俺、朝、ニュース見て、ビビって、持ってた半導体株、全部、投げた。底で。きれいに底で。──そんでな、翌日、"やっぱりAI強い"って記事、見て、怖くなって、慌てて、買い戻した。天井で。きれいに天井で」
「……つまり」わたしは言った。「高いところで買って、安いところで売って、また高いところで買った、と」
「そういうことだ!」クマノフはグラスを掲げた。
カウンターの反対の端で、チカノフが白ワインを舐めながら、ぼそりと言った。
「クマノフ。お前、才能あるよ。逆の」
「それ、この前も言ったろ!」
「本当のことは、何度でも言う」チカノフは眉一つ動かさない。「お前が売ったら底。お前が買ったら天井。──お前、逆指標として、完璧だ。お前の証券口座、みんなに公開したら、それ見て逆をやるだけで、世界中が儲かる。お前は人類に貢献できる。損することで」
「うるせえ! ……いや、それ、ちょっといいな。俺、それで稼げるんじゃ」
「稼げない」チカノフは即答した。「お前は自分の逆をやろうとして、なぜかまた、逆の逆で、間違える。そういう星の下だ」
わたしは腹を抱えて笑った。藤森さんも、カウンターの向こうで、肩を揺らしていた。──何十億ドルが消えて、また戻ってきた一週間のいちばん正しい総括がこの酔っぱらいのおじさんの逆張り人生だった気がした。
* * *
その夜、店には、ジョーンズも来ていた。
めずらしいことだった。昼のジョーンズはこういう場所をあまり好まない。でも、その日は隅のテーブルで、いちばん安いハウスワインをちびちびやっていた。DeepSeekの一週間が彼にとって、どういうものだったかをわたしはなんとなく察していた。彼の一生の傷が世界規模で、再生された週。祝うようなことでは、なかったけれど、たぶん彼は少しだけ、救われてもいた。自分だけじゃなかった、と。
「クマノフさんは」ジョーンズがその漫才を見ながら、小さく笑って言った。「実はいちばん正直な投資家です」
「正直?」わたしは訊いた。
「ええ」ジョーンズは言った。「あの人は負けを隠さない。むしろ、自慢する。──たいていの人は逆です。勝った話だけ、大きくして、負けた話はなかったことにする。だから、自分がどこで間違えるのか、一生、わからない。クマノフさんは、毎回、盛大に負けをみんなの前で晒す。だから、少なくとも、自分が"逆をやる才能"があることは、ちゃんと、知っている。──それは、案外、強いことです。あの人が十年、退場していないのは、たぶんそれが理由です」
わたしはその言葉を手帳ではなく、心にしまった。負けを隠さない。晒して、笑い話にする。──公開採点も、たぶん同じことなのだと思った。この店の酔っぱらいの逆張りと、あの部屋の真面目な公開採点はいちばん遠いようで、根っこは、同じだった。負けを見えるところに置いておく。
帰り際、クマノフが赤い顔で、わたしに言った。
「なあ、七瀬ちゃん。俺、こう見えてな、幸せなんだよ」彼は少し、しんみりして言った。「金はそんなに増えてない。むしろ、ちょっと、減ってる。でもな、週に一回、ここで、チカノフに馬鹿にされて、笑って。それで、次の週も、生きてる。──俺の"逆の才能"は、たぶん一生、治らん。だから、大きくは、賭けない。笑い話にできる分だけ、賭ける。それでいいんだ。それが、俺の生き残り方だ」
わたしはその言葉に少し、胸を打たれた。この陽気な、逆張りのおじさんも、彼なりに生き残る作法を持っていた。派手ではない。むしろ、負け続けている。でも、退場はしない。笑い話にできる分だけ、賭ける。──それは、あの冷たい部屋の哲学をまるで違う言葉で、言っているようだった。
* * *
週が明けると、相場はすっかり、落ち着いていた。
半導体株はDeepSeekの日の下げを半分ほど、取り戻していた。ドル円は百五十四円台に戻っていた。世界はまたAIの夢を見始めていた。──けれど、何かが、少しだけ、変わっていた。あの日、一瞬でも、「AIは、無敵じゃないかもしれない」という考えが、市場をよぎった。その記憶は消えない。完全には。
「亀裂は塞がりました」ダリが窓辺で言った。「でも、一度入った亀裂は次に同じ場所から、割れやすくなります。今日、みんなは、忘れた顔をしている。でも、心のどこかで、覚えている。"あれ"が、来るかもしれない、と。──それが、地味に効いてきます。これから」
彼女はそう言うと、久しぶりに自分の机に向かった。窓辺ではなく。数字と、向き合う姿勢で。
「そろそろ、動くんですか」わたしは訊いた。
「準備を始めます」ダリは言った。少しだけ、その声に張りがあった。「政治の秋が終わって、AIの冬が一度、割れて。ここから先は金利と、通貨の地形がまた主役に戻ってきます。──わたしの季節です。久しぶりの」
わたしはその横顔を見た。夏に令和のブラックマンデーで、半年の賭けを報われて以来、彼女はずっと政治の濁流の外で、待っていた。窓を見て。出番のない魔女として。──いま、その魔女が静かに机に戻ってきた。次の地形を読むために。それは、なんだか、心強い光景だった。
窓の外はまだ冬だった。けれど、いちばん深いところは、越えたのかもしれない。DeepSeekという、最初の亀裂をこの部屋は躱した。傷一つ、負わずに。そして、ヘリオスは大きく、被弾した。──派手な勝ち名乗りは、どこにもなかった。ただ、生き残った者と、そうでない者の差がまた一つ、静かに刻まれただけだった。
第35節|春の予告
二月に入ると、相場は何事もなかったような顔をしていた。
DeepSeekの一日がまるで悪い夢だったみたいに。半導体株は戻り、ドル円は百五十四円台で落ち着き、株はまた四万円をうかがった。世界は就任した大統領の減税の夢をもう一度、見始めていた。──ただ、あの日の亀裂は市場の記憶の底に細い線として、残っていた。誰も口には出さないけれど、みんな、少しだけ、知ってしまった。この無敵に見える相場も、たった一つの思いがけないニュースで、一日に何十億ドルも、吹き飛ぶことがある、と。
わたしはその二月、自分がこの部屋に通い始めて、もう半年以上になることに気づいた。
夏に憎しみを抱えて、この扉を叩いた。令和のブラックマンデーを見た。石破ショックの往復を見た。トランプ・トレードの熱狂を見た。DeepSeekの滝を見た。──そのあいだにわたしの中の何かが、確かに変わっていた。相場が少し、読めるようになった。数字の下の理由が見えるようになった。そして何より、白か黒か、敵か味方かで、世界を測るのをやめていた。ヒナがいて、シームがいて、クマノフがいて、ブリンがいた。みんな、少しずつ正しくて、少しずつ間違っていた。断罪できる人など、どこにもいなかった。
その代わりにわたしはひたすら、見て、書いていた。誰が生き残り、誰が消えるのか。その差がどこにあるのか。──それが、いつのまにか、わたしの仕事の芯になっていた。
* * *
霧島はその冬、一度も、姿を見せなかった。
数字がいいときは、来ない。ケニーの言ったとおりだった。デスクはDeepSeekを躱し、年初来の成績は悪くなかった。だから、あの穏やかな男は姿を見せなかった。──けれど、彼の残した言葉はまだわたしの中に棘のように刺さっていた。君はケニーをいい人だと思っている、それは半分だ。二人が昔、何だったのか。わたしはまだ掘り当てていなかった。掘れば、この部屋が壊れるかもしれない。だから、まだ掘っていなかった。──でも、いつかはと思っていた。それが記者だから、というより、この部屋のことを本当に知りたかったから。
ケニーはそのことについては、あいかわらず、何も言わなかった。ただ、ある夜、帰り際にぽつりと、こう言った。
「あんた、この冬、ずいぶん、笑うようになったな」
言われて、気づいた。そうかもしれなかった。夏に来たときのわたしはたぶん一度も、笑っていなかった。いまは、藤森さんの店で、クマノフの逆張り人生に腹を抱えて笑う。──憎しみだけを抱えていた頃には、なかったことだった。
「笑えるようになったのは」ケニーはコートを羽織りながら言った。「あんたが、少し、生きるのが、うまくなったってことだ。この商売と、同じだよ。深刻な顔してる奴から、飛ぶ。笑える奴が残る。──いい傾向だ」
彼はそれだけ言って、夜の中へ消えた。説教でも、名言でもなかった。ただ、少し、優しかった。
* * *
二月のある夜。ダリが机から顔を上げて、わたしを呼んだ。
「記者さん。少し、時間、ありますか」
彼女が自分から、わたしに時間を割くのは、めずらしかった。わたしは隣の椅子に座った。ダリのモニターには、いくつもの金利の折れ線と、通貨の値動きが、並んでいた。窓辺で空を見る魔女ではなく、数字と向き合う分析家の顔だった。
「そろそろ、地形がはっきりしてきました」ダリは言った。「政治の秋が終わり、AIの冬が一度割れて。いま、市場を動かす主役がまた金利と、通貨に戻ってきています。日本の中央銀行はもう一段、金利を上げるでしょう。アメリカはそう簡単には、下げられない。円高の理由が静かに積み上がっています。──わたしの読める相場に戻ってきたんです」
「じゃあ、また大きな賭けを?」わたしは訊いた。
「まだです」ダリは言った。「準備だけ。──なぜなら、もう一つ、大きなものが、控えているからです。春に」
「春」
「関税です」ダリは言った。静かに。「就任した大統領はまだ優しい武器しか、抜いていません。減税。規制緩和。株が喜ぶものだけ。でも、あの人の本当の武器はそっちじゃない。よその国に高い関税をかける。それをたぶん春に本格的に抜きます。そうなったら──今度はDeepSeekのような、一日の亀裂じゃ、済みません」
彼女はモニターの数字を指でなぞった。
「関税は世界中の品物と、お金の流れをいっぺんに変えます」ダリは言った。「株も、債券も、通貨も、いつもの相性が崩れる。何が安全で、何が危ないか、誰にも、わからなくなる。──八月の崖は日本の話でした。DeepSeekは、AIの話でした。でも、関税は世界そのものの地図の話です。あれが来たら、この半年、あなたが見てきたものが、ぜんぶ、小さく見えるかもしれません」
わたしはその言葉を静かに聞いていた。恐怖でも、興奮でもなかった。ただ、覚悟のようなものが、胸に静かに降りてきた。
* * *
その夜、帰り道。わたしは冬の空を見上げた。
まだ、寒かった。けれど、どこか空気の奥に春の匂いが、ほんの少し、混じり始めている気がした。──そして、その春にダリの言う、本当の嵐が待っていた。関税。世界の地図が書き換わる季節。
わたしはもう二か月前のいや、半年前のわたしとは違った。憎しみを抱えて敵地に乗り込んだ新人記者はもういない。かわりにここにいるのは、この冷たい部屋の四人と、藤森さんの店の笑いと、ヒナの店頭の葛藤と、シームの迷いと、霧島の秘密を全部、抱えながら、それでも、間に合わない手紙を書き続けると決めた、一人の記者だった。
断罪はしない。改宗も、しない。ただ、見て、書く。誰が生き残り、誰が消えるのか。人を博打に変える、あの潰しても湧く構造の本当の顔を。そして、このいちばん正直に見える部屋のいちばん奥に埋まった秘密を。
冬がもうすぐ、終わる。
そして、春が来る。ダリの言う、本当の嵐の季節が。世界の地図が書き換わる季節が。──わたしはそれをこのいちばん内側のいちばん冷たい部屋から、見届けることになる。今度は逃げも、決めつけもせず。ただ、まっすぐに目を開けて。
環境は一回、回った。磨き上げられたものほど、深く落ちる。躱した部屋と、呑まれた群衆。だが春には、もっと大きな風が海の向こうから吹いてくる。国と国が、関税という名の刃を抜き合う季節が——。
第3部「環境が回る」完。第4部「地図が燃える」(第五弾・2025年春のトランプ関税ショック)は公開中。
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