連載小説『為替の正体』· 第三弾 選ばれる国 2024年秋、三つの選挙。国が国を選び、市場が国を選ぶ。熱狂は飛びつく者を食い、デスクは飛びつかない——そして正直に見えるあの部屋の、いちばん奥に埋まった秘密が顔を出す。
第一弾「七月の攻防」・第二弾「令和のブラックマンデー」の続き。二〇二四年の秋、日本とアメリカ、三つの選挙が相場に熱を持ち込む。 飛びつく群衆と、飛びつかないデスク。松子の言った「為替をいちばん大きく動かすのは政治だ」が、現実になる——第2部・全12節。
第16節|潮が変わる
九月の戦時室には、夏のあの息を止めるような、緊張はもうなかった。
崖が過ぎて、ひと月半。部屋はいつもの図書館のような、静けさに戻っていた。エアコンの唸りも、心なしか、和らいでいた。窓の外の空気が変わったのが、わかる。あの八月の白く、灼けつくような光がいつのまにか、少し、斜めになって、夕方には、雑居ビルのすりガラスに橙色の長い影を落とすようになっていた。秋が来ようとしていた。何事も、なかったかのように。市場というのは、いつもそうだ。あれほどの傷を負っても、季節は平気な顔で、めくれていく。
わたしの立場も、少し、変わっていた。
あの暴落のあと、わたしは記事を書いた。戻る、数字と、戻らない、人のこと。暴落の大きさでは、なく、誰が生き残って、誰が消えたのか。その差がどこにあったのか。──松子はその原稿を長いこと、赤ペンを持ったまま、黙って、読んでいた。それから、ひとこと、「直すところが、ない」と言った。あの人が原稿に何も、入れなかったのをわたしは入社して、初めて、見た。記事は経済面では、なく、社会面の隅に載った。小さな、記事だった。けれど、それから、数日のあいだ、わたしの席の電話が何度か、鳴った。同じような、家族を抱えた、見ず知らずの人たちから。あなたの記事を読みました、と。──遅れて、届く、手紙が初めて、誰かのところへ届いた、音だった。
いちばん長く、話したのは、ある、年配の女性だった。
声が最初から、少し、震えていた。息子さんが、と、彼女は言った。三十代の息子が配信にのめり込んで、消費者金融にまで、手を出して、家を出ていってしまった、と。もう、二年、連絡がない。生きているのかも、わからない。──あなたの記事に「戻る数字と、戻らない人」って、書いてあったでしょう。あれを読んで、わたし、初めて、自分の息子が戻ってこない側にいるんだって、認められたんです。ずっと、戻る、戻るって、自分にも、言い聞かせてたんだけど。
わたしは受話器を握りしめたまま、何も、言えなかった。あなたの息子さんは、生きています、とも、言えない。戻ってきます、とも、言えない。記者は嘘をつけない。けれど、ただ聞くことだけは、できた。三十分、わたしはその人の息子の話を聞いた。小さい頃、いい子だった、という話。几帳面で、優しかった、という話。──桑原さんと、父と、同じ、輪郭をした、もう一人の誰かの話を。
電話を切ったあと、わたしはしばらく机に突っ伏していた。隣の席の先輩が何も言わずにコーヒーを置いていった。松子が遠くの席から、わたしを一度だけ、見て、またゲラに目を戻した。──真実で、人は救えない。けれど、救えない人の家族に「あなたは間違っていなかった」と、伝えることは、できる。遅れて、届く手紙は消えた人には、届かない。けれど、残された人のところへは、届く。それが、わたしの書く理由になりつつあった。
それでも、わたしは桑原さんのアカウントをまだ見ていた。
削除された、空っぽのページ。何度、開いても、何も、変わらない。それでも、わたしは一日に一度、その白い、画面を確かめずには、いられなかった。父の二十二秒を消せないのと、同じだった。宛先のない、ものを人はなかなか、手放せない。──わたしがこの部屋に通い続けているのも、たぶん半分はまだその宛先を探しているからだった。
その九月、わたしはもう観葉植物では、なかった。
四人はわたしに少しずつ、口をきくようになっていた。ジョーンズは訊けば、自分の計算の仕組みを教えてくれた。ソープは相変わらず、無表情だったが、わたしが隅の席に座ると、ときどきほうじ茶でなく、自分がコンビニで、買ってきた、二本目のお茶を何も言わずに机に置くようになった。歓迎、とまでは、いかない。けれど、追い出しも、しない。観葉植物がひと夏、枯れずにいると、人はそれを同居人くらいには、思い始める。わたしはその部屋の同居人になりつつあった。
その九月のある夜、叔父の小宮さんから、電話があった。
「おう、直美か。メシ、ちゃんと、食ってるか」
いつもの豪快な、声だった。わたしがこの人を父よりも、父のように思う、その声。母がどこにも、頼れなくなったとき、何も訊かずに茶封筒を置いていった、人。
「食べてるよ。叔父さんこそ」
「食ってる食ってる。──そういや、お前、まだ為替の取材、やってんのか」
心臓が小さく、跳ねた。わたしがいま、毎日、通っている、あの部屋のことを叔父には、話していなかった。為替は博打だと信じて疑わない、この人にわたしがクオンツ・ファンドの隅に座っている、なんて、言えなかった。
「うん、まあ。──叔父さん、八月のあの暴落、すごかったね。株が一日で、四千円も、下がって」
電話の向こうで、叔父が少し、黙った。
「……ああ。すごかったな」彼は言った。それから、急にいつもの調子で。「だから、言ったろ。為替も、株も、博打だ。お前の親父を見ろ。ああいうのに近づくんじゃ、ねえぞ。──まあ、お前は書くだけだ。賭けるんじゃ、ねえんだから、いいけどな」
「分かってるよ。いちばん分かってる」
叔父は笑った。じゃあな、メシ、食えよ、と、電話は切れた。
わたしは知らなかった。その夜も、叔父が油の染みた、工場の二階で、妻の写真の前で、缶ビールを一本だけ、開けて、ドル円の日足を見ていたことを。八月のあの長い、下ヒゲのローソク足を生き延びた、そのわずかな、持ち高をまだ慎ましく、握っていたことを。為替は博打だ、と、姪に説教する、その同じ口で、彼自身がその博打を規律で、飼い慣らして、生き延びている、たった一人の身内であることを。──世界はときどきこんなふうにすぐ隣で、繋がっている。気づかないだけで。
* * *
潮が変わったのは、九月の半ばだった。
その夜、わたしはいつものように隅の席で、四人を見ていた。日本時間の深夜。海の向こうで、アメリカの中央銀行が金利を決める。それが、その夜の主役だった。
八月のあの二つの鐘の夜とは、部屋の空気が違っていた。あのときは、全員が息を止めていた。今夜は違う。ケニーはコインをのんびりと、転がしていた。ジョーンズの消しゴムは机の上に置かれたままだった。ソープでさえ、いつもより、ゆっくりと、腕時計を直していた。勝負の夜では、なかったからだ。デスクはいま、ほとんど、何も、持っていなかった。八月の崖で、半年の賭けを利確して以来、ダリは新しい、大きな賭けを張っていなかった。
「魔女様は最近、暇そうだな」ケニーがコインを止めて、からかうように言った。
「暇では、ありません」ダリは窓辺で、言った。「待っているんです。──マクロのいちばんおいしいところは、もう食べました。八月に。ここから、しばらくは、誰の目にも、見える相場です。金利が下がる。みんなが、それを知っている。誰でも、見えるものに儲けは、残らない。だから、わたしはしばらく出番がありません。出番のない、魔女ほど、退屈なものは、ないですけどね」
その口調は軽かった。けれど、わたしは知っていた。彼女の軽さは、いつも何かの覆いだ。八月に彼女は勝った。半年の賭けは、報われた。けれど、勝った、その日に彼女は泣いていた。救えなかった、父のことを思い出して。勝ちは、祝うものでなく、数えるもの。──いま、出番がない、と言う、その横顔の奥にまだあの夜の重さが、沈んでいるのが、わたしには、見えた。勝った人間がいちばん静かになる、ということをわたしはこの部屋で、覚えた。
深夜。アメリカの数字が出た。
モニターのいくつもの数字がいっせいに動いた。けれど、八月のあの断末魔のような、痙攣とは、違った。もっと、滑らかな、もっと、大きな、ひとつの方向への動き。
「来た」ジョーンズが言った。「利下げ。〇・五。──予想されていた、〇・二五の倍です。大幅に踏み込んできた」
部屋の隅で、ソープがぽつりと言った。電卓を見たまま。
「大盤振る舞いを喜ぶな」彼は感情のない声で、言った。「医者がいきなり、強い薬を出すのは、患者がよほど、悪いからだ。〇・二五で、足りると思ったなら、〇・二五にしている。〇・五を選んだ、ということは、それだけ、急いでいる、ということだ。──気前のよさの裏には、たいてい、恐怖がある」
わたしはその言葉を手帳に書いた。気前のよさの裏に恐怖。──けれど、モニターの株価指数はその恐怖をまるで読んでいなかった。安いお金が来る、という、その一点だけを喜んで、跳ね上がっていた。市場は医者が強い薬を出した、その薬のことだけを見て、なぜ、強い薬が要るほど、患者が悪いのか、を見ていなかった。
「ほう」ケニーがコインを手のひらに載せた。「いきなり、大盤振る舞いか。アメリカの中央銀行がこんなに慌てて、緩めるってことは、よっぽど、景気が心配なんだろう。──祭りの始まりだ」
祭り、という言葉にわたしは引っかかった。
金利が下がる。お金が安くなる。安いお金は株を買う。資産を買う。そういう、緩和の流れをケニーは「祭り」と、呼んだ。けれど、その言葉を口にした、彼の横顔は祭りを楽しむ人の顔では、なかった。
* * *
「ケニーさんは」わたしは訊いた。「緩和の祭りが、嫌いなんですか」
ケニーはしばらくコインを転がしていた。それから、低く、言った。
「嫌いじゃ、ない。──ただ、よく、知ってる、ってだけだ」彼は言った。「金利が下がって、お金がジャブジャブになると、相場は上がる。何を買っても、儲かる。誰でも、天才になる。──そういう祭りで、踊って、消えていった連中を俺は嫌というほど、見てきた。祭りのあいだは、みんな、自分が賢いんだと思う。本当はただ潮が満ちてただけ、なのにな。潮が引いたとき、誰が裸で、泳いでたかが、わかる」
「たくさん、見てきたんですね」わたしは言った。「踊って、消える人を」
ケニーの手が止まった。
ほんの一瞬。彼の目にまたあの第1部の最後の夜に見た、影がよぎった。罪悪感に似た、もっと、深い、何か。
「ああ」彼は言った。短く。「見てきた。──いちばん近くで、な」
いちばん近くで。わたしはその言葉の選び方に引っかかった。見てきた、ではなく、いちばん近くで、見てきた。それは、まるで自分がその踊っていた、輪の中にいたことが、あるかのような、言い方だった。けれど、ケニーはそれ以上は言わなかった。また、コインを転がし始めた。とん、とん、とん。話は終わりだ、という、合図だった。
わたしは手帳に小さく、書きつけた。〈ケニー。緩和の祭り。"いちばん近くで"見てきた。──見ていた側か。いた側か〉。記者の勘がそこに何か、大きな、過去が埋まっていることを告げていた。この皺だらけの温かい、正直を売りにする男のいちばん奥に。いつか、それを掘り当てたとき、わたしと、この部屋の関係がどう、変わるのか。──そのときは、まだ来ていなかった。
* * *
二日後、今度は日本の中央銀行が金利を決めた。
アメリカが大きく、緩めた、その二日後。日本は動かなかった。金利を〇・二五のまま、据え置いた。総裁は会見で、慎重な、言葉を選んだ。八月のあの暴落の記憶がまだ生々しい。あれだけ、市場を揺らした手前、そう、簡単には、次の一手を打てない。市場はそれをそう、受け取った。
ドル円はその頃、百三十九円台をつけていた。
七月に百六十二円に手が届きそうだった相場が。八月の崖で、百四十一円まで、落ちて。九月には、百三十九円台。円はまだ高い。アメリカが緩めて、日本が据え置けば、二つの国の金利の差は縮む。教科書どおりなら、円はもっと、高くなる、はずだった。
けれど、ジョーンズの机の上の数字がその夜、奇妙な、ことを言い始めた。
「ダリ」彼はモニターから、目を離さずに言った。早口で。「私のシステムがおかしな、ものを捉えています。金利差は縮んでいる。なのに——円がこれ以上、高くなる、力が弱い。むしろ、価格は底を固め始めている。トレンドのいちばん最初の芽。まだ、誰も、見ていない。でも、これは——円安方向の芽です」
ダリが窓から、目を離した。
「教科書は金利差で、円高、と言う」ジョーンズは続けた。「でも、価格は違うことを言おうとしている。なぜです」
「教科書が古いからです」ダリは静かに言った。「金利差はもうみんなが、知っている。知っていることは、価格に織り込み済み。これからの相場を動かすのは、金利じゃ、ない。──もっと、大きな、もっと、原始的な、ものです」
「もっと、大きな?」わたしはつい、訊いた。
ダリはわたしのほうを見た。涼しい目で。けれど、その奥に何か、面白がるような、光があった。
「政治です」彼女は言った。「人が人を選ぶ。どの国がこれから、強くなるか。誰が舵を握るか。──金利は理屈で、動く。でも、政治は感情で、動く。期待と、失望で。群衆の感情で。これから、来るのは、そういう相場です。理屈の利く相場が終わって、感情の利く相場が始まる。わたしの得意な、マクロの川はしばらく政治の濁流に隠れます。──だから、わたしは出番がないと言ったんです」
わたしはふとジョーンズを見た。
八月のあと、彼は少し、変わっていた。あの暴落の夜、ダリが彼にバトンを渡した。ここからは、あなたの番です、と。そして、彼のシステムは崖を読み切った。機械が自分の影に追われて、売る。そのメカニズムを彼は誰よりも、早く、言い当てた。──以来、彼の左手の消しゴムが机から、落ちる回数が減っていた。不安の目盛りが、少しだけ、静かになっていた。
「ジョーンズさんは」わたしは訊いた。「八月に自分が正しかったこと、嬉しかったですか」
彼の手が一瞬、止まった。
「嬉しい、とは、違います」彼は早口で、けれど、いつもより、少し、ゆっくり言った。「私は昔、一度、死んでいます。──正確には、私の戦略が。効いていた、モデルがある日、ぱたりと、効かなくなった。市場が私の模型を学習して、追い越したんです。あのときは、自分が無能になった気がしました。市場に嘲笑われた、気が。──八月に私の模型がまた効いた。でも、私は思ったんです。これも、いつか、効かなくなる、と。効いている、いまこそ、次の陳腐化が始まっている。だから、嬉しい、より先に怖い。正しかった、その瞬間にもう次の間違いの種が蒔かれている」
ダリが窓辺で、薄く、笑った。
「ジョーンズは勝つたびに怖くなる」彼女は言った。「わたしは勝つたびに静かになる。ソープは勝っても、何も、変わらない。──この部屋の人間は誰も、勝ちをまっすぐ、喜べないんです。たぶん、まっすぐ、喜べる人から、順番に消えていく世界だから」
わたしはその言葉を手帳に書きつけた。まっすぐ、喜べる人から、消えていく。──桑原さんは、まっすぐ、喜ぶ人だった。父も、そうだった。勝った日のことだけをよく、喋った。この部屋の誰も、しない、ことを。
* * *
その夜、帰り際にケニーがわたしの肩をとん、と、叩いた。
「来週から、忙しくなるぞ、お嬢ちゃん」彼は言った。「日本の与党が新しい、ボスを選ぶ。誰が選ばれるかで、相場が跳ねる。そのあと、衆議院選挙だ。そして、秋のいちばんでかいやつ──アメリカが大統領を選ぶ。三つの選挙が立て続けに来る。秋は政治の季節だ」
「政治で、相場が動くんですか」わたしは訊いた。「そんなに大きく」
「動くなんて、もんじゃ、ない」ケニーはコートを羽織りながら、笑った。「いいか。金利や、景気はゆっくり潮が満ち引きするみたいに動く。だが、政治は違う。一夜で、世界地図の色が塗り替わる。誰が勝つかで、どの国に金が流れるかが、変わる。為替ってのはな、つまるところ、世界中の金がどの国を選ぶか、っていう、人気投票だ。──そして、選挙の夜ってのは、その人気投票がいちばん馬鹿になる夜なんだ」
彼はドアの手前で、振り返った。
「あんたが、夏に見たものは、序章だ」ケニーは言った。「あれは、相場が自分の重さで、つまずいた話だった。これから、見るのは、人が人を選んで、その選択に世界中の金が群がる話だ。──熱狂が来る。八月とは、逆向きの。上に上に登っていく、熱狂だ。そして、熱狂のほうが、暴落より、たちが、悪い。なぜか、わかるか」
「……わかりません」
「暴落は人を怖がらせる」ケニーは言った。「怖がった人は少なくとも、自分が危ないことを知ってる。だが、熱狂は人を安心させる。安心した人は自分がいちばん危ないところに立ってることに気づかない。笑いながら、崖へ向かう。──夏に消えた、桑原さんも。最後は笑ってた、はずだ。押し目だ、次で取り返す、ってな」
わたしの胸が疼いた。
ケニーはそれだけ、言うと、夜の中へ消えた。残された、わたしは窓辺のダリを見た。彼女はまだ暗くなった、街の灯りを見ていた。出番のない、魔女。けれど、その横顔は何か、来るべきものを静かに待っている、人の顔だった。
潮が変わる。
わたしはその夜、自分の取材ノートに新しい、ページを開いた。いちばん上の行には、まだ「桑原」の二文字が残っていた。わたしはそれを消さないまま、その下に新しい、言葉を書きつけた。〈秋。三つの選挙。熱狂は暴落より、たちが悪い。──笑いながら、崖へ向かう人を今度は見落とさない〉。
夏が終わった。
そして、政治の季節が始まろうと、していた。世界中の金がどの国を選ぶか。その人気投票のいちばん馬鹿になる夜がすぐそこまで、来ていた。わたしはまだ知らなかった。その最初の夜がたった、数十分で、沸騰した群衆を凍りつかせることを。そして、その凍りついた群衆のいちばん外側で、この部屋の四人だけが、指一本、動かさずに立っていることを。
第17節|熱を売る人
ヒナから、連絡が来たのは、その社会面の記事が出て、一週間ほど、経った頃だった。
〈ねえ、あの記事、書いたの直美だよね。「戻る数字と、戻らない人」。──読んだよ。ちょっと、会えない?〉
ヒナは大学のゼミの同期だった。
四年間で、いちばんよく、笑った相手で、いちばんまぶしかった相手だった。明るくて、要領がよくて、人の懐にするりと、入っていく。就職活動の時期、彼女は大手の証券会社に内定をもらって、フロアのみんなに囲まれていた。すごいね、勝ち組じゃん、と。わたしはその輪を少し、離れたところから、見ていた。金融、という、二文字を同級生がまぶしそうに口にするたびにわたしは廊下で、背中を丸める、父を思い出した。だから、わたしはその輪に入らなかった。入れなかったと言うほうが、近い。
卒業してから、わたしたちは少しずつ、疎遠になった。彼女が悪いわけでも、わたしが悪いわけでも、なかった。ただ、わたしが勝手に距離を置いた。金融の世界にいる、彼女と、その世界を憎んでいる、わたしとが、同じ、テーブルにつくのが、怖かった。憎しみは、いつもいちばん近いものから、傷つける。
そのヒナがわたしの記事を読んで、連絡をくれた。
わたしたちは駅の近くのチェーンのカフェで、会った。三年ぶりだった。ヒナは相変わらず、きれいで、仕立てのいい、紺のスーツを着ていた。けれど、わたしが覚えている、大学の頃の彼女とは、どこか違っていた。笑顔は同じだった。むしろ、前より、上手になっていた。完璧な、営業の笑顔。けれど、その笑顔が一瞬、途切れる、その隙間にわたしの知らない、疲れが、覗いた。
* * *
「記事、すごかった」ヒナはカフェラテを両手で、包みながら、言った。「直美、ほんとに記者になったんだね。──あのさ。あの記事の"戻らない人"。あれ、読んで、わたし、自分のお客さんの顔が何人も、浮かんだの」
わたしは黙って、続きを待った。記者の待ち方をわたしはこの夏で、覚えていた。
「わたしね」ヒナは言った。「リテール営業。個人のお客さんに投資信託とか、保険とか、売るの。──今年、新しい、非課税の制度が始まったでしょう。新NISA。あれで、もうお祭り騒ぎ。それまで、貯金しか、してこなかった、おじいちゃん、おばあちゃんから、若い子まで、みんな、口座を作りに来る。会社はノルマで、追い立てる。投信を売れ、売れ、って。──わたし、今年、めちゃくちゃ、売ったよ。表彰も、された。社内で、トップ。あはは」
彼女は笑った。けれど、その笑いの最後が少し、掠れた。
「八月にね」ヒナは続けた。声が低くなった。「あの暴落。──わたしが春に勧めた、お客さんたちが、含み益、ぜんぶ、溶かしたの。中には、退職金をぜんぶ、突っ込んだ、おじいちゃんも、いて。電話が鳴りやまなかった。ヒナさん、どうしよう、って。ヒナさんが、大丈夫だって、言ったから、買ったのにって。──わたし、何て、答えたと思う?」
「……何て」
「"長期で、見れば、戻りますから"」ヒナは言った。「マニュアルどおり。会社がそう言え、って、決めてる。長期で、見れば、大丈夫。狼狽売りは、いけません。気絶しとけ。──そう、言ったの。自分でも、それが、本当かどうか、わからないのに。だって、わたし、相場のことなんか、本当は何も、わからないもん。ただ、会社の研修で、教わった、台詞をお客さんが、安心する、いちばんいい、笑顔で、言うだけ」
わたしは息を呑んだ。
長期で、見れば、戻ります。──桑原さんの「先生」が、言っていた言葉と、同じだった。押し目です。次で、取り返せます。違うのは、桑原さんの「先生」が、嘘を嘘と、知って、売っていたのに対し、ヒナはそれが、本当かどうかも、わからずにただ会社に言わされた、笑顔で、売っていた、ということだった。どっちが、罪が重いのか。わたしには、わからなかった。
* * *
「九月に入って」ヒナは言った。「相場が戻ったでしょう。そしたら、ね。──あれだけ、八月に泣いてた、お客さんたちが、また来るの。ヒナさん、やっぱり、長期は正しかったね、って。もっと、買い増したい、って。退職金のおじいちゃんも、また来た。今度は奥さんの貯金まで、持って」
彼女はカフェラテの表面を見つめた。
「わたし、止めなかった」ヒナは言った。「止められなかった。だって、止めたら、ノルマがいかない。それにお客さんは、買いたがってる。わたしが止めても、別の営業から、買うだけ。だったら、わたしから、買ってもらったほうが、いい。──そうやって、自分に言い訳して、また売ったの。次こそ、上がります、って。気絶しとけ、って。同じ、笑顔で」
「ヒナ」
「ねえ、直美」彼女は顔を上げた。完璧な、営業の笑顔はもうなかった。「あなたの記事の"戻らない人"を作ってる、構造ってさ。──いちばん下っ端はわたしなんじゃ、ないかな。札束を背負った、配信者でも、悪い、業者でも、なくて。普通のいい会社に入って、表彰されてる、わたしみたいなのが、いちばんたくさん、いちばんたくさんの人に"次こそ"を売ってるんじゃ、ないかな」
わたしは何も、言えなかった。
わたしはこの夏、憎しみの宛先を探してきた。父を呑んだ、構造。潰しても、湧く、配管。それを暴いて、断罪したかった。──けれど、いま、目の前にいるのは、その「構造」のいちばん下っ端だと、自分を責める、大学のいちばんまぶしかった、友達だった。彼女は嘘をついていない。むしろ、誰よりも、正直に自分の罪を認めている。憎めるわけが、なかった。憎しみは、また宛先を見失った。
「ヒナは」わたしはやっと言った。「悪い人じゃ、ない」
「うん。知ってる」ヒナは寂しそうに笑った。「悪い人じゃ、ない人がいちばんたくさん、人を傷つけてるの。それが、いちばんたちが、悪いんだよ。──悪い人なら、捕まえれば、いい。でも、わたしみたいなのは、捕まえようが、ない。だって、わたし、ちゃんと、ルールを守ってるもん。表彰、されてるもん」
* * *
その夜、わたしはヒナを藤森さんの店に連れていった。
なぜ、そうしたのか、自分でも、わからない。ただ、彼女をあのカフェの明るすぎる、照明の下に置いておくのが、忍びなかった。あの温かい、地下の店の炭の匂いの中なら、彼女の強張った、笑顔が少しは、ほどけるかもしれないと思った。
店はいつものぬくもりだった。カウンターの端で、クマノフがもうできあがっていた。
「お、七瀬ちゃん、今日はお友達と?」クマノフが赤ワインを呷った。「いや〜、紹介してよ。俺、こう見えて、相場で、いっぱい、溶かしてる、面白い、おじさんだから」
「自慢になってないだろ、それは」チカノフが白ワインを舐めて、ぼそりと言った。「溶かした、額なら、こいつ、たぶんこの店で、いちばんだ。なのになぜかまだ、生きてる。生命力だけは、ゴキブリ並みだ」
「誰がゴキブリだ!」
ヒナがぷっと、噴き出した。三年ぶりにわたしは彼女の本当の笑いを見た。営業の笑顔じゃ、ない。大学の頃のあの屈託のない、笑い方だった。
藤森さんが、ヒナのグラスにワインを注ぎながら、にっこり、笑った。
「お友達は証券会社にお勤めなんですね」彼はヒナの名刺を見て、言った。値踏みする、ふうでは、なかった。ただ、温かく。「大変な、お仕事だ。人のお金を預かるっていうのは。──いちばん罪深くて、いちばん尊い、仕事ですよ。使い方、ひとつでね」
ヒナの笑顔が止まった。
「藤森さんも」彼女は訊いた。「投資、されるんですか」
「趣味でね」藤森さんは、笑った。「日足だけ。週に一回か、二回、見るだけ。生活費は絶対に賭けない。昔、一度、大きくやって、痛い目を見ましてね。それから、決めたんです。小さく、ゆっくり生き残る。──お客さんにも、そう、言ってあげられたら、いいんですけどね。会社はたぶんそれじゃ、儲からないから、言わせてくれないんでしょう」
ヒナはしばらく黙っていた。それから、小さく、頷いた。
「……ほんとにそう」彼女は言った。「"小さく、ゆっくり生き残れ"なんて、言ったら、わたし、表彰、されないどころか、怒られる。会社が儲かるのは、お客さんが、たくさん、売り買いして、たくさん、手数料を払ってくれるとき、だから。お客さんが、"小さく、ゆっくり"をやったら、会社は儲からない。──わたしの給料はお客さんが、無茶をするほど、増えるようにできてるの」
カウンターの端で、クマノフが急にしんみりと言った。
「……そりゃ、きついな、お嬢ちゃん」彼は珍しく、静かな、声で、言った。「俺らみたいな、馬鹿は勝手に溶かして、勝手に笑ってりゃ、いい。でもな、あんたは、人を溶かす、手伝いをさせられて、それで、表彰、されるんだろ。──それは、俺の馬鹿な損より、ずっと重いわ」
ヒナの目が潤んだ。馬鹿で、陽気な、クマノフのたった一言が完璧な、営業の笑顔のいちばん奥のつかえを突いたみたいだった。
* * *
帰り際、店の外で、ヒナが言った。
「来週ね」彼女は夜の空を見上げながら、言った。「総裁選、あるでしょう。自民党の。──うちのお客さん、もうお祭り騒ぎ。高市さんが、勝てば、爆上げだって。財政、ばらまいて、金融も、緩めて、株が上がるって。みんな、そっちに賭けてる。全力で。新NISAの若い子まで」
「高市さんが、勝つって、決まってるの?」わたしは訊いた。
「わかんない。でも、みんな、そう、信じてる」ヒナは言った。「信じてる人が多いほうに相場は動く。──ねえ、直美。あなたの取材してる、そのデスク。クオンツのすごい人たち。──あの人たちは、こういうとき、どうするの? やっぱり、高市で、爆上げに賭けるの?」
わたしはダリの涼しい横顔を思い出した。ケニーのコインを。ソープの電卓を。
「……たぶん」わたしは言った。「賭けない」
「賭けない?」ヒナは目を丸くした。「こんなわかりやすい、チャンスなのに?」
「わからない」わたしは正直に言った。「でも、あの人たちは、いつもいちばんわかりやすい、チャンスのときにいちばん動かないの。──理由は来週、わかると思う。よかったら、また教えるよ」
ヒナは不思議そうな顔で、わたしを見て、それから、笑った。
「あなた、変わったね、直美」彼女は言った。「昔はもっと、何かを憎んでる、顔してた。──いまは、何かを知りたがってる、顔してる」
わたしはその夜、彼女のその言葉を長いこと考えていた。
わたしは変わったのだろうか。憎しみは、まだある。けれど、その宛先が見えなくなって、代わりにわたしはいま、ひたすら、知りたがっていた。なぜ、ヒナのような、いい人が人を傷つける、いちばん下っ端にならされるのか。なぜ、潰しても、湧くのか。なぜ、戻る数字の裏で、人が戻ってこないのか。──そして、来週。世界中の金がひとりの政治家に賭けて、そして、その賭けが、たった、数十分で、裏切られるのをわたしはあの冷たい部屋の隅から、見ることになる。
政治の季節の最初の夜が来ようとしていた。
第18節|高市で爆上げ
その週、街は選挙の話で、もちきりだった。
正確には、選挙、では、なかった。与党の新しい、党首を選ぶ、内輪の選挙だ。けれど、与党が政権を握っている以上、その党首が次の総理大臣になる。だから、世間はそれをほとんど、総理を選ぶ選挙のように扱っていた。何人もの候補が名乗りを上げ、連日、テレビがその顔ぶれを映した。
市場の関心はたった一つの点に絞られていた。──誰が勝てば、株が上がるか。
わたしにも、それくらいは、わかるようになっていた。候補のひとりは、財政を大きく、出動させ、金融も、緩めることに積極的だと報じられていた。市場はその人が勝てば、お金がばらまかれ、株が上がり、円が安くなる、と、読んでいた。別の有力な、候補は金融所得への課税を強める、という、考えを明らかにしていた。市場はその人を警戒した。──つまり、市場にとって、この選挙は政治でも、政策でも、なく、ただ「自分の持っている株が上がるか、下がるか」の丁半博打になっていた。
そして、群衆は片側に賭けた。
「高市トレード」。誰が名付けたのか、その言葉がSNSにあふれていた。緩和に積極的だ、とされる、候補の名を冠した、お祭りだ。〈高市さんが、勝てば、日経、四万円、いや、五万円〉〈円も、また百六十円に戻る。全力ロード〉〈この選挙に乗らない奴は養分〉。配信者たちは、こぞって、そのお祭りを煽った。
* * *
わたしはその週、取材で、いくつもの配信を覗いた。
夏に見たものと、構図は同じだった。けれど、商品が変わっていた。夏は「相場が上がる」を売っていた。秋は「選挙で、上がる」を売っていた。
〈総裁選、必勝、攻略、ウェビナー。参加費、三万円〉。〈どの候補で、何を買えば、いいか。会員限定で、配信。月、二万円〉。〈選挙、トレードの極意。あなたも、一夜で〉。──選挙という、誰にも、結果のわからない、出来事を肴にして、確実に儲かる人がいた。賭ける人では、ない。賭けさせる人だ。当たれば、「先生のおかげです」と、感謝され、外れても、「相場は生き物ですから」で、済む。そして、参加費と、月会費だけが、確実に積み上がっていく。
わたしはその構造をノートに書き出してみた。
いちばん上に配信者、サロン。その下に彼らに客を流す、アフィリエイトの仕組み。さらにその下に客が実際に取引する、業者。客が負けた金のいくらかが、その業者の儲けになる。そして、いちばん下にヒナのような、まっとうな、証券会社の営業まで、繋がっている。みんな、別々の会社で、別々のルールで、動いている。誰も、法律を破っていない。なのに全体として、見ると、それは、一つの巨大な、漏斗だった。上から、人の「次こそ」を注ぎ込むと、下から、誰かの退職金が出てくる、漏斗。
わたしはその絵をソープに見せた。
彼はしばらくそれを見ていた。それから、自分の机の引き出しを開けて、あの古い、ノートを出した。びっしりと、手書きの数字で、埋まった、業者の表。彼はその一ページを開いて、わたしの絵のいちばん下の「業者」のところを指で、とん、と、叩いた。
「お前のその絵は」ソープは言った。「半分、合ってる。だが、漏斗はもっと、深い。お前が書いた、いちばん下の業者のそのさらに下がある。──いつか、見せてやる。お前がそれを見て、まだ書く気があるなら」
わたしはそのノートの続きを見せて、ほしかった。けれど、ソープはそれをまた引き出しにしまった。まだ、だ、という、合図だった。けれど、わたしは確信した。父を呑んだ、構造の本当の底があのノートの中にある。そして、ソープはそれを十年、見つめてきた。
* * *
デスクはそのお祭りの外にいた。
高市トレードがSNSで、沸騰し、ヒナの店頭が行列になり、配信者がウェビナーで、荒稼ぎする、そのまっただ中で。四人は不気味なほど、静かだった。
「乗らないんですか」わたしは訊いた。「これだけ、みんなが、片側に賭けてるのに」
「だから、乗らないんだ」ケニーがコインを転がしながら、言った。「いいか。選挙ってのは、二段階で、効く。一段階目は期待だ。誰が勝ちそうか。その期待で、相場が動く。二段階目は結果だ。実際に誰が勝ったか。──いま、動いてるのは、期待だけだ。期待で、出た値段は相場じゃ、ない。空手形だ。そして、空手形は結果が出た瞬間に紙くずになることが、ある」
「でも、高市さんが、勝てば」
「勝てば、な」ケニーは言った。「だが、この手の選挙は一回で、決まらないことが、多い。誰も、過半数を取れなきゃ、上位二人で、もう一度、やる。決選投票だ。──一回目で、いちばん人気だった候補が決選で、ひっくり返る。よく、ある話だ。みんなが、片側に賭けてるってことは、もし、ひっくり返ったら、全員がいっせいに逆へ走り出す、ってことだ。八月と、同じだ。混んだ船は舵が切れない」
ダリが窓辺で、付け加えた。
「金利の相場は理屈で、動きます」彼女は言った。「でも、選挙の相場は感情で、動く。期待と、失望で。──そして、感情はいちばん嘘をつく。みんなが、欲しがっているものは、たいてい、手に入らない。手に入った瞬間に別のものが、欲しくなるから。市場がこれだけ、高市トレードを欲しがっているということは、それが、手に入らないか、手に入っても、すぐ失望に変わるか、どちらかです」
* * *
その夜、ほかの三人が帰ったあと。わたしはケニーと、二人になった。
彼はめずらしく、すぐには、帰らずにモニターの高市トレードの緑色の数字を見ていた。沸き立つ、SNSの画面を。わたしは思い切って、訊いてみた。第15節で、彼が言いかけて、やめた、あのことを。
「ケニーさん」わたしは言った。「前に言いましたよね。父を呑んだ、配信の連中のことなら、誰より、よく、知ってる、って。それから、緩和の祭りで、踊って、消えた連中をいちばん近くで、見てきた、って。──いちばん近くって、どういう、意味ですか」
ケニーはしばらく答えなかった。コインを手のひらに載せて、そのすり減った、表面を見ていた。
「俺はな」彼はやがて低く、言った。「昔、こういう、お祭りで、みんなを踊らせる側にいた」
わたしの心臓が跳ねた。
「立会場がなくなって」ケニーは言った。「俺は相棒をあの月曜に失って。それから、しばらく相場から、離れてた。だが、戻ってきた。ちょうど、世の中が変わる頃だった。誰でも、家から、相場が張れるようになって。情報を売る商売が生まれた。──俺は口が立った。場立ちで、鍛えた、声と、度胸があった。だから、俺の言うことを聞きたがる奴がたくさん、いた。俺はそれを売った。俺について来れば、勝てる、ってな。実際、しばらくは、勝たせた。相場がよかったからだ。潮が満ちてたから、誰でも、勝てた」
彼はコインを握り込んだ。
「だが、潮は引く」ケニーは言った。「引いたとき、俺について来た連中がどうなったか。──それは、まだ話せん。いつか、話す。あんたが、この世界をもう少し、わかってからだ。いま、話したら、あんたは、俺をただの悪党だと思う。それは、半分、正しくて、半分、違う。その半分の違いをわかってもらうには、あんたは、まだ若すぎる」
わたしはケニーを見た。
この皺だらけの温かい、正直を売りにする男が。父を呑んだのと、同じ、構造の「踊らせる側」にいた。俺について来れば、勝てる、と、売った。それは、まさにわたしがこの夏、いちばん憎んできた、その言葉だった。──なのにわたしはケニーを憎めなかった。憎めない、その戸惑いの中にケニーの言う、「半分の違い」が、あるのだろうと思った。それが、何なのか。わたしには、まだわからなかった。
「だから」ケニーはコインをポケットにしまいながら、言った。「俺はもう誰にも、ついて来い、とは、言わない。公開採点で、外れを全部、晒す。当てても、威張らない。──それは、罪滅ぼし、なんてもんじゃ、ない。滅ぼせる罪なら、とっくに滅ぼしてる。ただ、二度と、同じことをしないための戒めだ。コインと、同じだ。生き残るのは、半分、運。当てたって、威張るな。──さあ、帰れ。明日は沸くぞ。前場はお祭りだ。だが、沸いたあとを見てろ。あんたが、書くべきものは、沸いたあとにある」
* * *
翌朝。九月二十七日。
投開票の日が来た。
戦時室のモニターには、高市トレードの期待で、すでに緑色の数字が躍っていた。SNSは、お祭りの絶頂だった。〈今日、爆上げ来る〉〈全力ロード、完了〉〈先生についていきます〉。何万もの人が同じ船の同じ側に肩を寄せ合って、上を向いていた。
わたしはその見覚えのある、景色に夏のあの百六十円の船を思い出した。いちばん混んだ船。いちばん楽しい、絶頂。
ケニーはコインを転がしながら、ただ待っていた。とん、とん、とん。
「まだだ」彼は誰にともなく、言った。「一回目じゃ、決まらない。本当の夜は午後だ」
そして、その日の午後。沸騰した、群衆がたった、数十分で、凍りつくのを。世界中の金が賭けた、その賭けが、決選投票の開票とともにひっくり返るのを。わたしはあの冷たい部屋の隅から、見ることになる。
第19節|高市の夜
その日の前場はお祭りだった。
午前中、一回目の投票の開票が進むにつれて、緩和に積極的だ、とされる、あの候補が最も、多くの票を集めている、と、伝わった。その報せだけで、相場は爆ぜた。
日経平均が跳ね上がった。前の日より、九百円を超えて。三万九千八百円台まで。ドル円も、円安に傾いた。百四十六円台。一時、百四十六円四十銭。──期待がまだ期待でしか、ないうちから、相場はもうその候補が総理になった後の世界を先取りして、走り出していた。
SNSは、絶頂だった。〈来た! 高市トレード、大爆発!〉〈言ったろ、全力ロードだって!〉〈今日で、口座、倍になった〉〈先生、ありがとうございます!〉。滝のように流れる、感謝と、歓喜。何万もの人が同じ船の上で、いっせいに拳を突き上げていた。
戦時室のモニターも、緑色に染まっていた。株高。円安。デスクがもし、この高市トレードに乗っていれば、いま頃、大きく、勝っていた。
なのに四人は指一本、動かしていなかった。
* * *
ジョーンズの左手が消しゴムをせわしなく、転がしていた。
「ダリ」彼はモニターを見ながら、言った。早口で。「私のシステムは円安を示しています。トレンドは下向き……いえ、円安方向。明確です。乗るなら、いまです。この勢いは——」
「乗るな」
遮ったのは、ケニーだった。コインを握り込んで。声は静かだったが、鉄のようだった。
「ジョーンズ。お前のシステムは正しい。価格は円安を向いてる。だが、その円安は何で、できてる? 期待だ。まだ、投票は終わってない。一回目で、いちばん人気だっただけだ。──いいか。人気投票の一回目で、出た値段に飛び乗るのは、いちばん危ない。なぜなら、その値段には、"もし、勝ったら"という、if が、丸ごと、乗っかってる。ifが、外れたら、値段はifごと、消える」
「でも」ジョーンズが食い下がった。めずらしく。「これだけの勢いです。もし、乗り遅れたら——」
「乗り遅れて、いい」ソープが横から、言った。電卓を見たまま。感情のない声で。「乗り遅れは、損じゃ、ない。飛び乗って、はしごを外されるのが、損だ。──いま、この値段で、買う人間は"高市が決選でも、勝つ"に有り金を賭けてる。決選がどう、転ぶか、誰にも、わからないのに。それは、投資じゃ、ない。賭博だ。私たちは、賭博はしない」
ジョーンズの手が止まった。彼はしばらくモニターの緑色を見ていた。それから、消しゴムを机に置いた。
「……わかりました」彼は言った。低く。「私はまだ市場に追いつこうと、しすぎる。八月に正しかったことが、私を少し、急がせている。──退きます」
わたしはそのやり取りを見ていて、ぞくりと、した。
これが、規律、というものだった。目の前にわかりやすい、儲けが、転がっている。システムも、乗れと言っている。世界中が乗っている。それでも、乗らない。乗りたい、という、そのいちばん強い、欲望を四人が四人がかりで、押さえつけている。──父には、これが、なかった。桑原さんにも、なかった。乗りたいと思ったら、乗った。ひとりで。誰も、止めなかった。
* * *
午後。
決選投票の開票が始まった。
上位、二人の候補による、決選。市場が勝つと信じていた、緩和に積極的な、候補と。金融所得への課税強化を掲げ、市場が警戒していた、もう一人の候補と。
わたしはモニターの緑色を見ていた。まだ、緑だった。株高。円安。群衆はまだ勝利を確信して、沸いていた。〈決選も、余裕〉〈このまま、四万円〉。
開票の報せが、入った。
逆転していた。
市場が警戒していた、ほうの候補が。決選で、勝っていた。
その瞬間だった。
モニターの緑が一瞬で、赤に変わった。まるで、誰かが、部屋の照明のスイッチを切り替えたみたいに。跳ね上がっていた、日経平均が崩れ落ちた。円安に傾いていた、ドル円が逆流した。百四十六円が百四十五円、百四十四円。わたしが瞬きする、あいだに百四十三円台へ。──前場に爆ぜた、高市トレードが後場にまるごと、吹き飛んだ。
それは、八月の崖とは、違う、種類の恐ろしさだった。八月は相場が自分の重さで、つまずいた。今日のは、違う。人が人を選んだ、そのたった一つの結果で、世界中の金がいっせいに向きを変えた。政治が数字を殺した。数十分で。
そして、SNSが、凍った。
数十分前まで、滝のように流れていた、歓喜のコメントがぴたりと、止まった。〈え〉〈嘘だろ〉〈なんで〉。それから、悲鳴が始まった。〈全力ロード、死んだ〉〈ロスカット〉〈さっきまでの利益、ぜんぶ、消えた。それどころか〉〈先生、どうすれば〉。──沸いていた船がたった、数十分で、転覆していた。
* * *
わたしのスマートフォンが震えた。ヒナからだった。
〈直美、助けて。お客さんからの電話が鳴りやまない。みんな、高市トレードに乗っちゃって。わたし、"大丈夫、長期で見れば"しか、言えない。でも、今日のこれは、長期とか、そういう問題じゃ、なくて。ただの賭けで、外れただけ。なのにわたし、それを"相場は生き物ですから"って、言わなきゃいけない。──ねえ、あなたのデスク、賭けなかったんでしょう。どうして、わかったの? どうして、あの人たちは、こうなるって、わかったの?〉
わたしはそのメッセージを握りしめて、部屋の四人を見た。
四人は静かだった。相場が赤く、崩れていく、その画面を見ながら。デスクは高市トレードに乗っていなかった。だから、この往復ビンタで、一円も、失っていなかった。前場の儲けも、逃したが、後場の地獄も、逃した。──ただ、そこにいた。嵐の目の中に。動かずに。
「彼らのフォロワーは」ケニーがぽつりと言った。赤い、画面を見ながら。「流動性だ」
わたしはその言葉を前にも、聞いた。夏に。俺たちは、彼らの反対側にいる。フォロワーは流動性だ、と。──いま、その言葉の意味がはっきりと、わかった。前場に爆上げに飛び乗った、何万もの人が後場に投げ売った。その投げ売りを誰かが、拾った。デスクは拾っていない。けれど、ヘリオスのような、誰かが、拾った。群衆の絶望が誰かの儲けになる。群衆は相場を動かす、燃料であって、相場に勝つ、プレイヤーでは、なかった。
けれど、ケニーのその横顔は勝ち誇っては、いなかった。
むしろ、その目には、何か、痛みに似たものが、あった。彼は赤く、崩れる、画面と、そこを流れる、悲鳴のコメントを長いこと、見ていた。〈先生、どうすれば〉〈ついていったのに〉。──そして、わたしは思い出した。第18節の夜。ケニーが言った、ことを。俺は昔、こういう、お祭りで、みんなを踊らせる側にいた。俺について来れば、勝てる、と、売った。
いま、画面を流れる、〈先生、どうすれば〉という、悲鳴は。かつて、ケニーが聞いた、悲鳴と、同じ、ものだった。
彼がこの往復ビンタに乗らないのは、規律のため、だけでは、ないのかもしれない。彼はこの群衆の絶望を内側から、知っている。かつて、自分が作った、絶望を。だから、彼は二度と、その側に立たない。乗らないことで、彼は毎回、あの月曜と、あの悲鳴に小さな、償いをしているのかもしれなかった。滅ぼせない、罪の戒めとして。
* * *
その日の引けが、近づいていた。
相場は百四十三円台で、下げ止まり、株も、崩れたまま、その日を終えようとしていた。前場のお祭りは、跡形も、なかった。
ダリが窓辺で、静かに言った。
「まだ、終わりじゃ、ありません」彼女は言った。「今日、逆転で、逃げた人はまだ傷が浅い。本当に痛むのは、月曜です。今日は金曜。土日を挟んで、高市トレードに乗った人たちは、二日間、逃げられない。月曜の朝、市場が開いた瞬間に逃げ遅れた、ぜんぶが、いっせいに出口へ殺到する。──週末を挟んだ、失望ほど、重いものは、ありません。二日間、後悔する、時間があるから」
「月曜、痛むぞ」ケニーがコインをポケットにしまいながら、言った。「今日の比じゃない。──お嬢ちゃん、月曜、見に来い。あんたが、書くべきものは、たぶん月曜にある」
わたしはヒナに返信を打とうとして、指が止まった。何を書けば、いいのか、わからなかった。あなたのデスクはなぜ、わかったのと、ヒナは訊いた。──わかった、わけでは、なかった。彼らは、結果を当てた、わけでは、ない。ただ、結果に賭けなかった。当てることと、賭けないことは、別のことだ。それをどう、ヒナに伝えれば、いいのか。彼女は当てる方法を探していた。わたしがこの夏で、覚えたのは、当てなくても、生き残る方法がある、ということ、だった。
わたしは結局、こう、返した。〈今日はゆっくり休んで。月曜、また連絡する〉。
窓の外はもう暮れていた。政治の季節の最初の夜が終わろうと、していた。そして、そのいちばん痛い、部分はまだ来ていなかった。月曜が来る。八月に聞いた、その言葉をわたしはまた聞いていた。月曜が来る。
第20節|石破ショック
月曜が来た。
ダリの言ったとおりだった。土日を挟んで、高市トレードに乗ったまま、逃げ遅れた、何万もの人が二日間、後悔する、時間を与えられた。そして、月曜の午前九時。市場が開いた、その瞬間にそのぜんぶが、いっせいに出口へ殺到した。
東証は寄りから、崩れた。
わたしは戦時室の隅で、その崩れ方を見ていた。八月のあの崖を思い出した。けれど、質が違った。八月は世界中が怖がって、逃げた。今日は違う。日本の株だけが、政治の失望で、崩れていた。寄り付きから、千六百円。前の週末に高市トレードで、沸いた、その反動がまるごと、逆回転していた。
午後、下げ幅は一時、二千円を超えた。
「与党の党首選のあとの初日の下げとしては」ジョーンズがモニターを見ながら、言った。「記録的な、水準です。この二十数年で、いちばん」
終値。日経平均は千九百十円、下げて、三万七千九百円台まで、落ちた。
* * *
SNSは、地獄だった。
金曜に〈全力ロード、大爆発〉と、拳を突き上げていた、同じ、アカウントが月曜には、沈黙するか、悲鳴を上げるか、どちらかだった。〈退場します〉〈信用、追証、死んだ〉〈高市トレード、二日で、口座、半分〉。ウェビナーで、必勝法を売っていた、配信者たちは、判で押したように同じ、言い訳をしていた。〈相場は生き物ですから〉〈政治は読めませんからね〉〈次の衆院選で、取り返しましょう〉。
次で、取り返す。──また、その言葉だった。
ヒナから、短い、メッセージが来た。〈今日、お客さん、二人、"もう、やめる"って。退職金のおじいちゃんも、そのひとり。──わたしの勧めた商品じゃ、なかったけど。でも、わたしがこの業界にいること、自体がなんか、もう〉。それきり、途切れていた。
わたしはその退場していく、人たちのことを思った。桑原さんのように消息を絶つ人も、いるのだろう。けれど、多くは、たぶん静かに口座を閉じて、日常に戻っていく。二度と、相場を見ない、と、誓って。傷を抱えて。──彼らは、ニュースには、ならない。数字にも、ならない。ただ、「出来高」の一部として、通り過ぎる。わたしが書くべきなのは、その数字にならない、人たちのことだった。
戦時室の四人は無傷だった。
高市トレードに乗らなかったから、この往復ビンタで、一円も、失っていなかった。前場の儲けも、後場の地獄も、どちらも、素通りした。──ただ、それだけだった。誰も、喜ばなかった。無傷、というのは、勝ち、では、ない。
* * *
その午後。わたしのスマートフォンが震えた。シームからだった。
ヘリオスのあの隈のある、若い男。第1部の崩落の日にも、彼はわたしにメッセージを送ってきた。なぜ、記者のわたしにこんなことを送るのか。たぶん、彼には、他に言える相手がいないのだ。
〈ブリンさんのデスク、この選挙の往復を全部、取りました。金曜の爆上げも、決選の暴落も、今日の反動も。上がるところは、買い、下がるところは、売り。機械が何百回も、往復して。──ブリンさんは、言ってました。"政治は人間には、悲劇だが、機械には、ただのボラティリティだ"って。今週、うちのデスクはたぶんあなたの取材してる、あの四人が半年で、稼ぐ額を稼ぎました。三日で〉
わたしはそのメッセージを読んで、部屋の四人を見た。
無傷の四人。損はしなかった。けれど、儲けも、しなかった。その同じ、三日間で、ヘリオスは往復を全部、刈り取って、莫大な、利益を上げていた。速さで。感情のない、機械で。──デスクの規律は彼らを往復ビンタから、守った。けれど、その同じ規律が彼らを莫大な、儲けからも、遠ざけた。
わたしは初めて、規律の代償を見た。
* * *
「ずるいと思うか」
ケニーがわたしの顔を見て、言った。わたしの手の中のスマートフォンの中身を読んだみたいに。
「……賭けなかったのは、えらいと思います」わたしは正直に言った。「でも。同じ、三日で、ヘリオスはあなたたちの半年分を稼いだ。飛びつかなかったから、損はしなかった。でも、儲け損ねたのも、事実です。それで、いいんですか。目標は年に三五パーセントなのに」
ケニーはコインを転がした。とん、とん、とん。しばらく、黙っていた。
「よくは、ない」彼は言った。あっさりと。「悔しいよ。ブリンのあのデスクが今週、いくら、抜いたか。考えると、腹の底が冷える。──俺たちは、遅い。ブリンみたいに往復を全部は取れない。あいつらは、感情がないから、金曜に買って、月曜に売れる。俺たちには、それが、できない。俺たちには、感情があるからだ」
「感情があると、なぜ、できないんですか」
「金曜に群衆と、一緒にはしゃいで、月曜に群衆を置いて、逃げる」ケニーは言った。「それを何百回も、やる。それが、ヘリオスのやり方だ。──俺はそれが、できない。昔、それをやった側にいたからだ。群衆と、一緒にはしゃいで、群衆を置いて、逃げる。あれの後味を俺は知ってる。だから、二度と、やらない。俺たちの遅さは、能力がないんじゃ、ない。やらない、と、決めてる、ぶんの遅さだ」
彼はコインを握り込んだ。
「それに」ケニーは続けた。「速さには、速さの請求書が来る。ブリンはこの往復を全部、取った。だが、あいつは、往復を取るために常に市場にフルで、張ってる。速く、動くために大きく、レバレッジをかけてる。──八月を思い出せ。ブリンの一部隊はあの崖で、被弾した。速さで、往復を取り続ける、その同じやり方がたった一度、崖になった日にあいつらを轢いた。速い奴はいつか、自分の速さに轢かれる。俺はそれを待ってる。三五パーセントは往復で、稼ぐんじゃ、ない。崖で、生き残って、稼ぐんだ」
ソープが電卓を見たまま、継いだ。
「ヘリオスは今週、私たちの半年分を稼いだ」彼は言った。「だが、私たちは、八月の一週間で、死ななかった。ヘリオスのあの部隊は死にかけた。──長い、目で、見ろ。往復を全部、取って、たまに飛ぶのと。往復を逃して、絶対に飛ばないのと。百年、続けたら、どっちが、残ってる。飛んだら、ゼロだ。ゼロには、何を掛けても、ゼロだ。私たちは、掛け算の途中で、ゼロを引かない。それだけが、私たちのエッジだ」
* * *
わたしはその夜、そのことを長いこと考えていた。
規律には、代償がある。飛びつかなければ、儲けも、逃す。速さに量で、負ける。それは、事実だった。デスクは聖人でも、無敗の救世主でも、なかった。彼らは、毎週、ヘリオスに儲けの大半を持っていかれながら、それでも、飛びつかない、という、地味で、悔しい、選択を続けていた。──それは、わたしが想像していた、「かっこいい、クオンツ」の姿とは、まるで違った。もっと、地味で、もっと、忍耐の要る、何かだった。
当てることと、賭けないこと。速く、儲けることと、絶対に飛ばないこと。──この夏から、秋にかけて、わたしが覚えたのは、そういう、二つのものが、まるで逆のことだ、という、ことだった。世間は前者を賞賛する。当てる人。速く、儲ける人。配信の先生。けれど、百年、生き残るのは、後者だった。地味で、悔しくて、賞賛されない、後者。
ヒナに伝えたかった。あなたのお客さんが、探している、「当てる方法」は、たぶん存在しない。存在するのは、「当てなくても、飛ばない方法」だけだ。でも、それは、地味すぎて、退屈すぎて、誰も、月三万円を払って、習おうとは、思わない。だから、構造はいつまでも、「当てる方法」を売り続ける。潰しても、湧く。──わたしはその絵の輪郭がまた少し、はっきりするのを感じた。
* * *
週が明けても、下げの余波は続いた。けれど、その数日後。相場はまた向きを変えた。
新しく、党首に選ばれた、あの政治家は。市場が金融所得課税や、利上げに前向きだ、と、警戒していた、その人は。首相になると、意外にも、追加の利上げには、慎重な、姿勢を見せ、そして、まもなく、衆議院の解散と、総選挙を決めた。市場が「この人なら、円高」と思っていた、その前提が数日で、剥がれ落ちた。
ドル円はじりじりと、円安に戻り始めた。百四十三円台から、百四十五円、百四十七円へ。
「ね?」ダリが窓辺で、言った。「"石破さんなら、円高"は、数日で、剥がれました。政治の期待はこうやって、いつも裏切られる。──ここから先は政治の濁流が少し、澄んで、また大きな、流れが、見えてきます。ドル高です。アメリカの金利はまだ高い。日本の政治は緩和を続けそう。そして、来月、いちばん大きな、選挙が控えている。──秋の本当の主役はこれからです」
ジョーンズの机の上の数字がまた円安方向のトレンドを示し始めていた。今度は期待では、なく、もっと、太い、流れとして。
「トレンドが」彼は言った。「戻ってきました。今度は本物です」
ケニーがコインを転がしながら、笑った。
「よし」彼は言った。「政治のお祭りは、いったん、終わりだ。ここからは、地道な、ドル高だ。──だが、油断するな。来月、アメリカが大統領を選ぶ。あれが、決まったとき、世界地図の色が変わる。今度のお祭りは、日本の比じゃ、ない」
わたしは窓の外を見た。十月に入っていた。街路樹が少しずつ、色を変え始めていた。三つの選挙の二つ目がもうそこまで、来ていた。そして、その向こうにいちばん大きな、三つ目が。世界中の金がどの国を選ぶか。そのいちばん大きな、人気投票が。
第21節|友達の背中
十月に入ると、相場は静かな、けれど、太い、流れを取り戻した。
政治のお祭りの往復ビンタが収まると、その濁った水の底から、もっと、大きな、地形が見えてきた。ドル高だ。アメリカの金利はまだ高い。景気の指標も、思ったより、底堅い。一方で、日本の新しい、政権は緩和を続けそうで、しかも、総選挙を控えて、政治は不安定。──二つの国のあいだの水位の差がまた開き始めた。ドル円は百四十五円から、百四十七円、百四十九円へ。じりじりと、しかし、着実に円安へ坂を上っていった。
そして、その十月。わたしは初めて、この部屋が「張る」のを見た。
通い始めて、二か月以上。八月の崖で、ダリが利を確定して以来、デスクはずっとほとんど、何も、持っていなかった。政治のお祭りにも、乗らなかった。わたしはいつのまにか、この部屋を「動かない部屋」だと思い込んでいた。──けれど、それは、違った。彼らは、動かなかったのでは、ない。動くべき、流れが、来るのを待っていたのだ。
* * *
その朝、ジョーンズの机の上の数字が静かにけれど、はっきりと、色を変えた。
「トレンドが確立しました」彼は言った。早口で。けれど、その声には、八月のあの暴落を読み切ったときとは、違う、落ち着いた、確信があった。「円安方向。期待でも、政治でもない。金利差と、フローに裏打ちされた、本物のトレンドです。──私のシステムがいちばん得意な、局面です」
わたしはジョーンズを見た。彼はいつか、言っていた。自分の戦略は一度、死んだ、と。効いていた、モデルがある日、ぱたりと、効かなくなった。市場に追い越された。無能になった気がした、と。──いま、その彼のトレンドフォローがまた息を吹き返していた。しかも、彼はそれに酔っていなかった。効いている、いまこそ、次の陳腐化が始まっている、と、彼は知っている。だから、彼は慎重だった。
「よし」ケニーがコインを止めた。「乗ろう。だが——ジョーンズ、いま、飛びつくな」
「飛びつかない?」わたしはつい、口を挟んだ。「トレンドが来てるのに?」
ケニーはわたしのほうを見て、皺の奥で、笑った。
「トレンドは友達だ」彼は言った。「これは、相場の古い、格言でな。流れには、逆らうな。友達になれ、と。──だが、みんな、後半を忘れる。友達だからって、走ってる友達の背中に飛び乗ったら、どうなる? 二人とも、転ぶ。友達がいちばん速く、走ってる、その勢いのいい、瞬間に飛び乗るのが、いちばん危ない。──俺たちが、やるのは、こうだ。友達が一度、立ち止まって、息をつくのを待つ。そして、その隣にそっと並ぶ。それから、一緒に歩き出す」
「立ち止まる?」
「押し目だ」ジョーンズが言った。「トレンドは一直線には、進みません。上げて、少し、戻して、また上げる。その"少し、戻した"ところ——友達が息をついた、その一瞬に買う。勢いのいい、天井で、飛びつくのでは、なく」
ソープが電卓を叩いていた。
「サイズはこうする」彼は言った。「トレンドが続くと、決めつけない。続いているあいだだけ、乗る。折れたら、すぐ降りる。──"友達"が、急に振り返って、逆走を始めたら、いちばん最初に手を離す。友達だが、心中はしない」
その日から、数日。デスクは円安のトレンドに乗った。派手さは、まるでなかった。相場がぐん、と、上げる、そのいちばん興奮する、瞬間には、彼らは、何も、しなかった。ただ、上げて、少し、戻して、市場が「あれ、もう終わりか?」と、不安になる、その静かな、一瞬にソープが淡々と、買いを入れた。そして、またトレンドが続くと、静かに含み益が育っていった。
* * *
「向こう側は」わたしは訊いた。「ヘリオスはどうやって、乗ってるんですか」
「初動だ」ケニーが言った。「あいつらは、トレンドが動き出した、いちばん最初の一秒を機械で、取る。誰よりも、速く。そして、勢いのいい、ところを根こそぎ、持っていく。──俺たちが、"友達が息をつくのを待つ"あいだにブリンはもう何往復も、食い終わってる。だから、あいつらのほうが、たくさん、稼ぐ。今週も、たぶんそうだ」
「悔しくないんですか」
「悔しいよ」ケニーはあっさりと言った。「毎日、悔しい。──だがな。初動を取るには、常に引き金に指をかけて、市場に張りついてなきゃ、ならん。一瞬の判断ミスが命取りだ。俺たちは、押し目を待つ。待つあいだは、指を引き金から、離せる。飯も、食える。眠れる。──長い、目で、見ろ。四十年、引き金に指をかけ続けられる、人間はいない。どこかで、疲れる。判断が鈍る。そこで、飛ぶ。俺たちは、疲れない、やり方で、乗ってる。派手じゃ、ないが、来年も、再来年も、同じことが、できる」
わたしはその言葉を手帳に書きつけた。──疲れない、やり方で、乗る。
この夏から、わたしがこの部屋で、覚えたことは、いつも同じ、一つのことの言い換えだった。速く、当てることでは、なく、長く、生き残ること。往復を全部、取ることでは、なく、崖で、飛ばないこと。天井で、飛びつくことでは、なく、押し目で、隣に並ぶこと。──退屈で、地味で、賞賛されない、けれど、百年、続く、やり方。
そして、その地味な、やり方で。デスクの年初来の数字は静かに回復し始めていた。
* * *
ある日、ケニーがモニターの隅に映る、自分たちの成績を見て、ぽつりと言った。
「線から、だいぶ、離れたな」
わたしはそれが、何の線か、すぐにわかった。八月に風で、めくれた、あの紙。年初来、プラス、十一パーセント。目標、三五。そして、見せてもらえなかった、もう一本の線。利回りが、二十を割ったら、その担当はこの部屋を出る。──八月の崖で、ダリが半年の賭けを利確し、そして、いま、十月の地道な、ドル高トレンドで、デスクはその馘首の線から、着実に遠ざかっていた。
「三五には、届きそうですか」わたしは訊いた。
「わからん」ケニーは言った。「まだ、遠い。だが、二十を割る心配は当分、ない。それで、いい。──いいか、お嬢ちゃん。目標の三五は"取りにいく"もんじゃ、ない。三五を取りにいくと、無理をする。無理をすると、飛ぶ。俺たちは、三五を狙わない。二十を絶対に割らない、やり方を続ける。そうすると、いい年は三五を超えるし、悪い年でも、二十は守れる。──的の真ん中を狙うんじゃ、ない。的を外さない、射ち方を覚えるんだ」
その夜、ダリがめずらしく、わたしに声をかけた。窓辺から。
「あなた、少し、退屈そうですね」彼女は言った。「八月みたいな、劇的なことが、起きないから」
図星だった。わたしは正直に頷いた。
「それが、正しいんです」ダリは言った。「劇的な、相場は誰かが、死ぬ相場です。八月に劇的だったのは、何万もの人が崖から、落ちたから。──いまの退屈な、ドル高は誰も、劇的には、死んでいない。地味に静かに坂を上っている。記者としては、退屈でしょう。でも、この退屈さの中で、生き残っている、というのが、いちばん書きにくくて、いちばん大事なことです。派手な、崖は誰でも、書ける。退屈な、生存を書ける記者は少ない」
* * *
十月の下旬。ドル円は百五十三円台をつけた。七月以来の水準だった。
八月に百四十一円まで、落ちた相場が。二か月半で、十二円、戻していた。誰も、劇的には、騒がなかった。SNSは、また少しずつ、強気を取り戻していた。〈やっぱり、円安〉〈ドル、握ってて、よかった〉〈握力の勝利〉。八月の悲鳴はもう誰も、覚えていないみたいだった。
そして、その十月のいちばん大きな出来事が二つ、続けて、やってくる、ことになっていた。
一つは、週末の衆議院選挙。日本の有権者が政治を選ぶ。もう一つは、その翌週のアメリカの大統領選挙。世界が次の覇者を選ぶ。──二つの選挙が立て続けに来る。ケニーの言った、「秋の本当の主役」が、いよいよ、近づいていた。
その週のはじめ。戦時室にめずらしい、客があった。
高級そうな、けれど、少しも、派手ではない、仕立てのスーツを着た、初老の男だった。物腰は穏やかで、声は低く、静かだった。四人がその男を見たとき、部屋の空気がほんのわずかに張りつめたのをわたしは感じた。ケニーでさえ、コインを止めた。
「霧島さん」ダリが言った。
わたしはその名を知っていた。この八十億を預けている、人。この私設のファンドを作った、富豪。四人を集めた、パトロン。──「正直なエッジの証明に金を出している」と、ケニーが言った、その人が。初めて、わたしの目の前に現れた。
そして、その穏やかな目がまっすぐ、わたしを見た。取材の記者を。品定めするように。あるいは、もっと、別の何かを見透かすように。
「君が」霧島は静かに言った。「例の記者さんか」
第22節|霧島
「君が」霧島は静かに言った。「例の記者さんか」
わたしは立ち上がって、頭を下げた。名刺を出そうとして、指が少し、震えた。この人の前では、誰でも、そうなるのかもしれないと思った。声を荒げるわけでも、威圧するわけでも、ない。ただ、穏やかにそこにいる。なのに部屋の重力がその初老の男の周りにだけ、少し、濃くなっているように感じた。
「七瀬です」わたしは言った。「取材をさせていただいて」
霧島はわたしの名刺を受け取って、しばらく見た。それから、ゆっくりと、応接用の椅子に腰を下ろした。四人はそれぞれの机で、いつもの作業を続けている、ふりをしていた。けれど、部屋の全員が霧島の一挙一動に耳を澄ませているのが、わかった。
「ケニー」霧島は四人のほうを見ずに言った。「今月の数字は」
「戻してます」ケニーが答えた。いつもの飄々とした、口調が少しだけ、硬かった。「八月の崖を生き残って。九月の政治の往復には、乗らず。十月のドル高に規律で、乗ってる。年初来はじき、二割の後半に」
「二割の後半」霧島は繰り返した。感情の読めない、声で。「目標は三割五分だ」
「わかってます」
「わかっている、と、君はいつも言う」霧島は言った。穏やかに。けれど、その穏やかさが、いちばん冷たかった。「わかっていて、届かない。それは、わからないより、たちが、悪い。──八月に生き残ったのは、褒めよう。ヘリオスの若い連中はあの月にいくつか、飛んだ。君たちは、飛ばなかった。それは、いい。だが、飛ばないだけなら、銀行に預けておけば、いい。私は飛ばないために八十億を預けたんじゃ、ない」
部屋の空気が凍った。
わたしは初めて、この穏やかな男の下に四人がどれだけの重さを背負って、立っているのかを見た。八月のあのダリの涙。息を止めた、半年。ソープの贖罪。ケニーの規律。──それは、崇高な、哲学であると、同時にこの初老の男のたった一言で、値踏みされる、成果でも、あった。三割五分。届かなければ、意味がない。
* * *
「霧島さん」ダリが窓辺から、言った。静かに。「二割を割らなければ、いいのでは、なかったですか。それが、条件だったはずです」
霧島は初めて、ダリのほうを見た。そして、薄く、笑った。
「魔女は相変わらず、口が減らないな」彼は言った。「そうだ。二割を割ったら、その担当は出る。それが、条件だ。だが、条件を守ることと、私を満足させることは、別だ。──君たちは、二割を割らない。立派だ。だが、私が見たいのは、"割らないこと"じゃ、ない。"正直な、やり方で、あいつらに勝てること"だ。切り取りのハイライトでも、嘘の勝率でもなく。全部を晒して、それでも、勝てること。──それを証明できないなら、この実験は失敗だ」
あいつら。──わたしはその一言に引っかかった。霧島の穏やかな声の底に初めて、感情のようなものが、覗いた。あいつら、と、彼が言ったとき。それは、単なる、競争相手を指す、言葉には、聞こえなかった。もっと、個人的な、もっと、古い、何かへの憎しみに似た、響きが、あった。
「あいつら、というのは」わたしは記者の癖で、つい、口を挟んだ。「ヘリオスのような、大きな、ファンドのこと、ですか」
霧島はわたしを見た。長いこと。品定めするように。
「記者は」彼は言った。「余計なことを訊く。それが、仕事だから、仕方ないが」
彼はそれ以上は答えなかった。けれど、答えないこと、それ自体が答えのように思えた。この八十億の実験は単なる、ビジネスでも、道楽でもない。この穏やかな、初老の男は何かを証明したがっている。あるいは、何かに復讐したがっている。正直なエッジが嘘に勝つ。切り取りのハイライトが支配する、この業界で。──それは、理想のように聞こえて、その根にもっと、暗くて、もっと、個人的な、何かが、埋まっている。わたしはそう、直感した。
* * *
霧島はしばらく四人の仕事ぶりを黙って、見ていた。それから、立ち上がった。帰り際、彼はわたしのそばで、足を止めた。
「七瀬さんと言ったね」彼は言った。低く。他の四人には、聞こえない、声で。「君はこの部屋をどう、見ている。二か月、通って」
わたしは少し、考えてから、正直に答えた。
「最初は」わたしは言った。「上等な、博打場だと思っていました。でも、いまは、違います。ここは、たぶんこの業界で、いちばん正直な、部屋です。特にケニーさんは──」
「ケニーはいい人だ、と?」霧島が遮った。
わたしは頷いた。
霧島はふっと笑った。悲しそうにも、面白がっているようにも、見える、笑いだった。
「君は」彼は言った。「ケニーをいい人だと思っている。──それは、半分、正しい」
「半分?」
「いまのケニーはいい人だ」霧島は言った。「それは、本当だ。だが、いまのケニーがいい人でいられるのは、昔のケニーがいい人じゃ、なかったからだ。人はな、七瀬さん。何もしていない人間が聖人には、ならない。いちばん深く、罪を犯した人間がいちばん必死に正直になる。──ケニーが"正直なエッジ"にあれほど、憑かれているのは、彼が昔、いちばん正直じゃ、なかったからだ。何百人を踊らせて、置いて、逃げた、そのいちばん近くに私がいた」
わたしの心臓が跳ねた。
いちばん近くに私がいた。──ケニーが第18節で、言った、言葉と、同じだった。踊らせる側をいちばん近くで、見てきた。そして、いま、霧島はその「いちばん近く」に自分がいたと言った。二人は過去を共有している。ケニーが踊らせて、逃げた、その現場に霧島も、いた。──では、霧島は何だったのか。ケニーの仲間? 被害者? それとも──
「あなたは」わたしは掠れた声で、訊いた。「ケニーさんの昔の何だったんですか」
霧島は答えなかった。ただ、穏やかに微笑んだ。
「それを掘るのが」彼は言った。「君の仕事だろう。記者さん。──ただ、忠告しておく。掘るなら、覚悟をしておくことだ。君はいま、この部屋を正直な、いい人たちの部屋だと思っている。そのいちばん大事な、思い込みが、崩れたとき、君がそれでも、ここにいられるかどうか。──私はそれを少し、見てみたい」
彼はそれだけ、言うと、静かに部屋を出ていった。ドアが閉まる、その瞬間まで、部屋の重力は彼と、一緒だった。
* * *
霧島が去ったあと、部屋はしばらく沈黙していた。
ケニーはコインを握り込んだまま、モニターを見ていた。わたしは彼に訊きたかった。霧島と、あなたは昔、何だったのか。何百人を踊らせた、というのは、本当なのか。──けれど、訊けなかった。ケニーの横顔がそれを拒んでいた。彼はたぶんわたしと、霧島のあの短い、会話の中身を察していた。そして、いまは、話す気がない、ということも。
「霧島さんは」わたしは代わりにダリに小声で、訊いた。「どういう、人なんですか」
ダリは窓の外を見たまま、少し、考えてから、言った。
「わかりません」彼女は言った。「三年、彼の金を運用していますが。彼が本当は何をしたいのか、わたしにも、わからない。──ただ、一つだけ、確かなことが、あります。あの人は"正直なエッジの証明"を慈善で、やっているんじゃ、ない。あの人にとって、これは、復讐か、贖罪か、そのどちらかです。たぶん、両方。──そして、その真ん中にケニーがいる。わたしたちは霧島さんの実験であると、同時にケニーと、霧島の昔の決着の道具でも、あるんです。何の決着かは、知りません。でも、いつか、それが、表に出る。そのとき、この部屋はたぶん一度、壊れます」
わたしはぞっとした。
霧島の最後の言葉が蘇った。そのいちばん大事な、思い込みが、崩れたとき、君がそれでも、ここにいられるかどうか。──わたしはこの部屋を正直な、いい人たちの部屋だと思い始めていた。憎しみの対極にある場所だと。けれど、その土台の下にケニーと、霧島の暗い、過去が埋まっている。そして、わたしは記者だった。掘るのが、仕事だった。掘れば、この部屋が壊れるかもしれない。掘らなければ、記者で、なくなる。
わたしはその夜、取材ノートの新しい、ページに書きつけた。〈霧島。正直なエッジの証明=復讐か贖罪か、両方。ケニーの過去に"いちばん近く"いた。──二人は昔、何だったのか。掘れば、部屋が壊れる〉。
いちばん上の行には、まだ「桑原」の二文字が残っていた。その下にいま、「霧島」と、「ケニー」の名が並んだ。わたしの取材はもう暴落の記録では、なくなっていた。それは、このいちばん正直に見える部屋のいちばん奥に埋められた、秘密を掘り当てる、旅に変わり始めていた。
窓の外では、十月が暮れていた。週末には、日本の有権者が政治を選ぶ。そして、その翌週には、世界が次の覇者を選ぶ。──選挙の季節はまだ続いていた。けれど、わたしの心をいちばんざわつかせていたのは、もう相場でも、選挙でも、なかった。この部屋の四人のいちばん温かい男のいちばん奥に埋まっている、何か、だった。
第23節|過半数
その週末、日本の有権者が政治を選んだ。
衆議院の選挙。開票が進むにつれて、はっきりしてきたのは、与党が過半数を割る、という、結果だった。長いあいだ、政権を握ってきた、二つの党が合わせても、議席の半分に届かない。政治が宙に浮く。誰が誰と、組むのか。政権は続くのか。──先の見えない、状態が生まれた。
月曜、市場はその不透明さを嫌った。
ドル円は円安に傾いた。一時、一パーセント、下げて──円が下げて、という言い方にわたしも、ようやく、慣れてきた──百五十三円八十八銭。三か月ぶりの円安水準だった。政治が不安定な、国の通貨は売られる。教科書どおりの動きだった。
「乗らないんですか」わたしはもう癖のように訊いた。
「乗りません」ダリが窓辺で、答えた。「この円安は理由が弱いんです」
「弱い?」
「政治が不透明だから、円が売られる」ダリは言った。「それは、本当です。でも、"不透明"は、いつか、晴れます。誰かが、誰かと、組んで、政権が決まれば、この不透明を理由にした、円安は消える。──理由の弱い、動きには、乗らない。理由が消えたら、動きも、消えるからです。わたしが待っているのは、もっと、太い、理由の円安です。金利差。フロー。そして──来週のアメリカ」
彼女は窓の外を見た。
「同じ、円安でも」ダリは続けた。「政治の不透明で、売られる円と、アメリカが次の覇者を選んで、その国に金が集まって、売られる円とは、まるで別ものです。前者は砂の城。後者は岩の地形。──記者さん。この二つを見分けられるようになったら、あなたはもう素人じゃ、ありません」
わたしはその二つの円安を手帳に書き分けてみた。砂の城と、岩の地形。同じ、数字の動きが、まるで違う、意味を持つ。相場は数字の羅列では、なかった。数字の下に理由があって、理由には、強い、弱いが、あった。──二か月前のわたしなら、この区別を聞いても、何も、わからなかっただろう。
* * *
その火曜の夜。ソープがめずらしく、わたしを呼んだ。
「七瀬」彼は電卓から、目を上げずに言った。「まだ、書く気はあるか。あの漏斗の絵」
わたしの心臓が跳ねた。第18節で、彼が言った、言葉だった。お前の絵は半分、合ってる。漏斗はもっと、深い。いつか、見せてやる。お前がまだ書く気があるなら。
「あります」わたしは言った。
ソープは机の引き出しを開けた。あの古い、手書きのノート。十年分の業者の表。彼はそれを机の上に置いて、わたしのほうへ少しだけ、滑らせた。
「見ろ」彼は言った。
わたしはそのノートを覗き込んだ。びっしりと、数字が埋まっていた。会社の名前。金額。矢印。──最初は意味がわからなかった。けれど、ソープが指で、なぞりながら、説明するにつれて、それが、一つの地図であることが、わかってきた。お金の流れの地図だった。
「いちばん上に配信者や、サロンがいる」ソープは言った。「お前が書いた、とおりだ。彼らは、"必勝法"を売る。だが、月会費だけじゃ、たいした額にならない。本当の儲けは、その下だ。──彼らは、客を特定の業者に流す。口座を開かせる。すると、業者から、彼らに紹介料が入る。客がたくさん、取引するほど、客がたくさん、負けるほど、紹介料は増える」
彼はページをめくった。
「そして、その業者の多くは」ソープは言った。「客の注文を市場に流さない。自分の中で、飲み込む。客が負けた金がそのまま、業者の儲けになる、仕組みだ。──つまり、配信者と、業者は客が勝つと、困る。客が負けて、また"次こそ"と思って、金を入れ続けるのが、いちばん儲かる。だから、彼らは、"勝てる"を売る。勝たせるためじゃ、ない。客に賭け続けさせるためだ」
* * *
わたしはそのノートのいちばん下のほうを見ていた。
小さな、業者の名前がいくつも、並んでいた。もう、なくなった、会社。名前を変えた、会社。海外に逃げた、会社。ソープはその消えた会社も、律儀に追いかけて、記録していた。十年。
そしてある、ページで、わたしの目が止まった。
あるサロンの名前と、その下に繋がった、業者の名前。──わたしはそのサロンの名前に見覚えが、あった。ずっと、昔。母が父の遺したものを片づけていたとき。督促状の束の中に混じっていた、一枚の案内。父が入っていた、サロン。月に三万円を払っていた、あの「先生」の。
わたしはそのページを指で、押さえた。手が震えていた。
「これ」わたしは掠れた声で、言った。「このサロン。──これが、たぶん。わたしの父がいた、ところ、です」
ソープはそのページを見た。それから、わたしを見た。感情のない、はずのその目にほんのわずかな、何かが、よぎった。
「そうか」彼は静かに言った。
わたしは思った。ずっと、この瞬間を探してきたのだ。父を呑んだ、宛先。胸ぐらを掴んで、お前のせいだと言ってやる、その相手。それが、いま、この十年分のノートの一ページに名前として、載っていた。わたしはついに宛先を見つけたのだ。──なのに。
なのにわたしの中に湧いたのは、勝利感でも、怒りでも、なかった。
ただ、途方もない、虚しさだった。
なぜなら、そのサロンはノートの何百ものサロンの一つにすぎなかったからだ。その業者は何百もの業者の一つにすぎなかった。父を呑んだのは、この一つのサロンでは、なかった。この一枚のページでも、なかった。──ノート、全体だった。漏斗、全体だった。潰しても、湧く、構造、全体だった。わたしがそのサロンの「先生」を見つけ出して、胸ぐらを掴んでも。その下には、業者がいて、業者の下には、もっと、大きな、何かが、いて。そして、そのサロンはたぶんとっくに名前を変えて、いまも、別の誰かの父を呑んでいる。
「わかったか」ソープが言った。
わたしは頷けなかった。
「お前が探してた、"悪い奴"は」ソープは言った。「ここには、いない。一人も。いるのは、"仕組み"だ。誰か、一人を捕まえても、仕組みは、消えない。──だから、お前の書くべきものは、"誰が悪いか"じゃ、ない。"どういう、仕組みが、人を呑むか"だ。犯人を探す記事は一人を吊るして、終わる。仕組みを書く記事は次の誰かを崖の手前で、止めるかもしれない。──どっちを書くかは、お前が決めろ」
* * *
その夜、わたしはなかなか、帰れなかった。
父がいた、サロンの名前を見つけた。三年と、四か月、探してきた、宛先を。なのに憎しみは、行き場をなくしたまま、だった。いや──むしろ、宛先を見つけたことで、いっそう、はっきりと、わかってしまった。憎むべき、一人の悪人など、どこにも、いない、ということが。いるのは、ヒナのような、罪悪感を抱えた、下っ端と。名前を変えて、逃げ続ける、無数の業者と。潰しても、湧く、仕組みだけ。
わたしは父の二十二秒をまた思い出した。次で、取り返す。あの言葉は父が選んだ、言葉だと思っていた。違った。あれは、あのサロンが業者が仕組みが、父の口に押し込んだ、言葉だった。次で、取り返す。それを言い続けるように設計された、罠。父はその罠の言葉を最後まで、自分の言葉だと信じて、消えた。
わたしは取材ノートを開いた。いちばん上の「桑原」。その下の「霧島」「ケニー」。そして、いま、わたしはその下に父がいた、サロンの名前を書こうとして──書かなかった。
代わりにこう、書いた。〈父を呑んだのは、"誰か"じゃ、なかった。"仕組み"だった。宛先はない。──だから、わたしは犯人を吊るす記事でなく、仕組みを灯す記事を書く〉。
三年と、四か月、握りしめてきた、胸ぐらを掴む、その拳を。わたしは静かに開いた。掴む、相手がいなかったからでは、ない。掴んでも、意味がない、と、わかったからだった。それは、諦めでは、なかった。もっと、静かで、もっと、遠くを見る、何かへのはじまりだった。
ソープが帰り際、コートを羽織りながら、言った。感情のない、いつもの声で。
「来週だ」彼は言った。「いちばん大きい、選挙が。アメリカが次の大統領を選ぶ。──あれが、決まった、瞬間に世界中の金の流れが、変わる。日本の政治の比じゃ、ない。ダリの言う、"岩の地形"が、動く。準備しておけ。お前がこの秋、いちばん大きなものを見るのは、来週だ」
わたしは頷いた。窓の外では、十月が終わろうと、していた。二つの選挙の一つ目が終わり、いちばん大きな、二つ目がすぐそこに来ていた。世界が次の覇者を選ぶ。そのいちばん大きな、人気投票の夜が。
第24節|前夜
その夜のことをわたしは八月のあの夜と、重ねずには、いられなかった。
八月にも、わたしは一つの夜明けを待っていた。眠れずに。あのときは、崩落の前夜だった。世界があまりにも、平凡で、あまりにも、無防備な、日曜の夜。誰もが、押し目だと笑って、眠っていた。そして、翌朝、床が抜けた。──いま、わたしはまた一つの夜を待っていた。けれど、今度の夜の温度はまるで逆だった。
あのときが、静けさの前夜なら。今度は熱狂の前夜だった。
海の向こうで、アメリカが大統領を選ぶ。その開票が始まるのが、日本時間で、翌日の昼。世界中がその結果を待って、息を詰めていた。けれど、その息の詰め方が八月とは、違った。八月は恐怖の息詰まりだった。いまは、興奮の息詰まりだった。世界中の金がたった一つの問いに賭けようとしていた。どちらが、勝つか。
そして、市場はその問いを二つの丁半に翻訳していた。
一方の候補が勝てば、減税と、規制緩和で、景気が沸き、金利が上がり、ドルが強くなる。円は安くなる。株は上がる。──もう一方の候補が勝てば、その逆。市場はそう、読んでいた。だから、群衆は単純だった。トランプなら、円安。ハリスなら、円高。丁半だ。どちらかに全部を賭ける。
* * *
SNSは、賭場だった。
〈トランプ勝利で、ドル円、一六〇円。全力ロード、完了〉〈いや、ハリスだ。円高に全力ショート〉〈明日で、人生、変わる〉〈選挙、トレード、必勝ウェビナー、今夜、最終回。参加費、五万円〉。──八月に消えた、はずのあの熱がそっくり、そのまま、戻っていた。いや、もっと、大きくなって。国内の選挙は前哨戦。本番はこれだ、とばかりに。
わたしはその賭場の画面をスクロールしながら、既視感にめまいが、した。混んだ船。片側に寄りきった、群衆。あと少し。人生が変わる。──これは、七月の百六十円の船と、同じだった。八月の崖の前と、同じだった。九月の高市トレードと、同じだった。世界はこんなにも、律儀に同じ形を何度でも、作る。人が入れ替わっても、船の形は変わらない。
けれど、八月のわたしと、いまのわたしは違った。
八月、わたしはこの船を見ても、怖いだけだった。何が起きるのか、わからなかった。いまは、わかる。この船がどちらに傾いても、片側に全部を賭けた、群衆の半分は明日、轢かれる。当たった、半分は英雄になり、外れた、半分は消える。そして、英雄になった、半分も、その成功体験を抱えて、次の丁半で、いつか、消える。──わたしはもうこの船の行き先を知っていた。知りながら、止められないことも。
* * *
その夜、ヒナから、電話が来た。
「直美」彼女の声は疲れていた。「今日、店、すごかった。朝から、"トランプで、円安、全力で、ドル買いたい"って、お客さんが、行列。普段、投資なんか、しない、おじいちゃんまで。孫の教育資金だとかで。──わたし、止めたの。今日はやめましょう、って。選挙の結果なんて、誰にも、わからないから、って」
「止めたの?」わたしは驚いた。
「うん。──そしたら、上司に呼ばれた」ヒナは言った。声が掠れた。「なんで、売らないんだ、って。お客さんが、買いたいって、言ってるのに。他社に取られるだけだ、って。──直美。わたし、初めて、"売らない"をやってみたの。あなたのデスクの話を聞いてから、ずっと考えてて。売らないことも、できるんじゃ、ないかって。──でも、この業界で、売らないっていうのは、営業失格、なんだって。売らない営業はいらない、んだって」
わたしは受話器を握りしめた。
「ヒナは」わたしは言った。「間違ってない」
「わかんない」ヒナは言った。「でも、ね。今日、一人だけ、いたの。わたしが止めたら、"そうですよね、やめときます"って、帰った、若い、お客さん。あの子だけは、明日、何が起きても、轢かれない。──たった、一人だけど。わたし、初めて、"売らなかった"ことで、誰かを助けたのかも、しれない。営業成績は最悪だけど。あはは」
彼女の笑いは、掠れていた。けれど、その底に八月には、なかった、何かが、あった。
わたしは電話を切ったあと思った。ヒナは変わり始めている。構造のいちばん下っ端で、"次こそ"を売っていた、彼女が。一人でも、崖の手前で、止めることを覚え始めている。──たった、一人。けれど、その一人は桑原さんが、なれなかった、一人だった。父がなれなかった、一人だった。遅れて、届く手紙は消えた人には、届かない。けれど、まだ崖の手前にいる、誰かには、届く。ヒナはその手紙を店頭で、一通、手渡したのだ。
* * *
翌日の昼。開票が始まる、その直前。
わたしは戦時室にいた。
部屋は八月のあの夜明け前と、同じくらい、静かだった。けれど、今度は崩落の静けさでは、なかった。嵐の目の静けさだった。世界中が興奮で、沸き立っている、そのまっただ中で、この部屋だけが、不気味なほど、凪いでいた。
ケニーはコインを転がしていた。とん、とん、とん。
「賭けないんですか」わたしは訊いた。「どちらが、勝つか」
「賭けない」ケニーは言った。「いいか、お嬢ちゃん。選挙の夜ってのは、相場がいちばん馬鹿になる夜だ。世界中が興奮して、まともな、判断ができなくなる。──そんな夜に"どっちが、勝つか"に賭けるのは、馬鹿のやることだ。俺たちが、賭けるのは、そこじゃ、ない」
「じゃあ、どこに」
「結果が出たあと、群衆がどっちに殺到するか、だ」ケニーは言った。「誰が勝つかは、俺には、わからん。だが、結果が出た、その瞬間に何万もの人がいっせいに同じ方向へ走り出す。その殺到が相場を動かす。──俺たちは、結果を当てるんじゃ、ない。結果が出たあとの群衆の殺到に規律で、乗る。友達の背中に飛び乗るんじゃ、ない。友達が走り出す、方向を見極めてから、隣に並ぶ。だから、俺たちは、いま、何も、賭けない。ただ、待つ」
ソープが電卓を閉じた。
「サイズは最小にしてある」彼は言った。「開票の瞬間、価格は上にも、下にも、大きく、飛ぶ。窓が空く。八月と、同じだ。飛んでから、考えても、遅い。最悪を先に払ってある。──今夜、いくら、飛んでも、私たちは、死なない。そして、方向が固まってから、ゆっくり乗る」
わたしはその言葉に八月の第10節を思い出した。月曜が来る、と、ソープが言った、あの夜。最悪を先に払う。同じだった。三か月、経っても、この人たちのやり方は一ミリも、ぶれていなかった。相場が恐怖でも、熱狂でも。崩落でも、選挙でも。彼らは、いつも同じことをしていた。最悪を先に払い、結果に賭けず、群衆の殺到を待ち、規律で、乗る。──退屈なほど、一貫していた。そして、その一貫性こそが、たぶん彼らが、生き残っている、理由だった。
ダリが窓辺で、静かに言った。
「面白いですね」彼女は言った。「一つの国が誰を選ぶかで、世界中の金の流れが、変わる。──でも、いちばん面白いのは、そこじゃ、ありません。誰が勝っても、群衆は"自分は正しい側に賭けた"と思いたがる。当たった人は実力だと思う。外れた人は運が悪かっただけだと思う。どちらも、"次"は、当てられると思う。──だから、選挙は何度、来ても、群衆を賢くしません。むしろ、当たった記憶が次の破滅の種になる。今夜、当たる、半分の人がいちばん危ないんです」
わたしはその言葉を手帳に書きつけた。当たった記憶が次の破滅の種になる。
窓の外はよく晴れた、十一月の昼だった。世界が次の覇者を選ぼうとしていた。そして、この部屋の四人はその世界の興奮の外で、指一本、動かさずにただ待っていた。群衆がどちらに走り出すのかを。
開票が始まった。
第25節|開票
開票は日本の昼から、始まった。
最初のうちは、まだ拮抗していた。どちらが、勝つとも、言えない。市場も、様子を見ていた。ドル円は百五十二円台で、息を詰めていた。戦時室のモニターの数字も、じっと、動かない。世界中が開いた口を閉じたまま、開票の速報を待っていた。
流れが、変わったのは、接戦とされる、いくつかの州の結果が伝わり始めたときだった。
そのいくつかの州で、一方の候補が──市場が勝てば、減税と、規制緩和で、ドルが強くなる、と、読んでいた、あの候補が──優勢だ、と、伝わった。まだ、確定では、ない。けれど、その報せだけで、相場が爆ぜた。
ドル円が跳ねた。百五十二円台から、百五十三円、そして、百五十四円台へ。日経平均が跳ね上がった。上げ幅がみるみる、千円を超えた。三万九千円台へ。──八月に百四十一円まで、落ちた相場がいま、百五十四円。三か月で、十三円。世界中の金が一つの方向へいっせいに走り出していた。ドルへ。アメリカへ。
SNSは、爆発していた。
〈トランプ勝利、キター! ドル円、爆上げ!〉〈全力ロード、大正解! 口座、爆益!〉〈言ったろ、トランプで、円安だって!〉〈先生、ありがとうございます! 一生、ついていきます!〉。九月の高市トレードで、焼かれた、はずの群衆が。十月の往復ビンタで、退場した、はずの群衆が。また、そっくり、戻ってきて、今度は当たった、と、拳を突き上げていた。
* * *
戦時室の四人はその爆発を静かに見ていた。
「乗らないんですか」わたしはまた訊いた。もう、答えは、わかっていたけれど。
「まだだ」ケニーがコインを握り込んで、言った。「見ろ。いま、跳ねてるのは、初動だ。いちばん興奮してる、瞬間だ。──こういうときにいちばん速く、動いてるのが、誰か、わかるか」
わたしには、わかった。「ヘリオス、ですか」
「そうだ」ケニーは言った。「ブリンの機械は接戦州の速報が出た、そのコンマ数秒後には、もうドルを買ってる。人間の指より、速く。──いま、この百五十四円までの跳ねのいちばんおいしいところは、もうあいつらが、根こそぎ、持っていった。俺たちには、取れない。取ろうとしたら、いちばん高いところで、飛びつくことになる」
ジョーンズの机の数字が明確な、トレンドを示していた。彼の指はしかし、引き金にかかっていなかった。
「初動はヘリオスにくれてやります」彼は言った。「私たちが、取るのは、このあと。相場が一度、"上げすぎたか?"と、迷って、少し、戻す、その瞬間です。今夜の興奮が少し、冷めて、でも、トレンドは生きている。その押し目を」
「今夜のは」ダリが窓辺で、言った。初めて、その声に確信があった。「乗る価値のある、円安です」
わたしは彼女を見た。
「九月の政治の円安は砂の城でした」ダリは言った。「衆院選の不透明の円安も、砂の城。理由が弱いから、乗らなかった。──でも、今夜のは、違います。アメリカが次の四年の舵取りを決めた。減税。規制緩和。景気が沸けば、金利は高いまま。世界中の金がそのアメリカに集まる。これは、政治の期待じゃ、ない。これから、実際に四年、続く、地形の変化です。岩の地形。──わたしが九月から、待っていた、円安がやっと来ました」
その夜──正確には、翌日にかけて。デスクは動いた。
初動の爆発が一段落し、相場が百五十四円台で、少し、揉み合い、"さすがに上げすぎか"という、ためらいが、出た、その一瞬。ソープの指が静かに動いた。ドル買い。円売り。決めた、サイズで。派手さは、まるでなかった。群衆が初動で、拳を突き上げた、その何時間も、あとに。冷めかけた、押し目で。デスクはようやく、そのトレンドに隣を並べた。
* * *
「悔しくないんですか」わたしはケニーに訊いた。「いちばんおいしいところをヘリオスに取られて」
「悔しいさ」ケニーは笑った。「毎度、同じことを訊くな、お前は。──だが、いいか。今夜、初動で、爆益を出したのは、ヘリオスと、"トランプに全部、賭けてた、群衆"だ。ヘリオスはいい。あいつらは、次の瞬間には、もう利食って、逃げてる。機械だからな。──問題は群衆だ」
彼はモニターのSNSの歓喜の滝を顎で、示した。
「あいつらは」ケニーは言った。「今夜、当たった。全力で、ドルを買って、当たった。だから、あいつらは、こう、学ぶ。"選挙は全力で、賭ければ、儲かる"と。──それが、いちばん危ない、学習だ。今夜、当たった、その成功体験を抱えて、あいつらは、次の丁半でも、全力で、賭ける。そして、いつか、外す。今夜、いちばん大きく、勝った奴がいつか、いちばん大きく、飛ぶ。──演者のP&Lと、本当のP&Lは、別物だ。今夜、画面で、爆益を見せてる、あの配信者たちの本当の口座を俺は見てみたいよ」
わたしはその歓喜の滝を見ていた。〈爆益〉〈一生、ついていきます〉〈次も、先生に〉。当たった、英雄たち。今夜、この国のどこかで、何万もの人が当たった、と笑っている。そして、その笑いの中に次の桑原さんの種が蒔かれている。当たった、記憶。全力で、賭ければ、儲かる、という、いちばん危ない、教訓。
わたしはふと思った。今夜、当たって、笑っている、あの群衆は。八月に崖から、落ちた、群衆と。九月に高市トレードで、焼かれた、群衆と。たぶん、同じ、人たちだった。焼かれて、消えて、また戻ってくる。当たって、笑って、また賭ける。──潰しても、湧く。ケニーの言った、その言葉は配信者だけのことでは、なかった。群衆、そのものが、潰しても、湧く、性質を持っていた。だからこそ、構造は永遠に餌に困らない。
* * *
相場は熱狂のただ中にあった。
翌日、日経平均は千五円、上げて、三万九千四百円台で、引けた。四万円をうかがう、勢いだった。ドル円は百五十四円台の後半まで、円安が進んだ。約三か月ぶりの水準。世界中の株が上がった。誰もが、勝っていた。──いや、勝っている、ように見えた。
デスクも、勝っていた。初動は逃したが、押し目で、乗った、ドル買いが、静かに含み益を育てていた。九月から、待っていた、"岩の地形"のトレンド。それに規律で、乗った、ぶんだけ。派手では、ないが、確かな、勝ち。年初来の数字がまた一段、目標へ近づいた。霧島のあの冷たい、視線が少しだけ、遠のく。
なのにダリは窓辺で、晴れない顔をしていた。
「お祭りですね」わたしは言った。「今度はみんな、勝ってる。八月とは、逆」
「ええ」ダリは言った。「みんな、勝っている。だから、怖いんです」
「怖い?」
「お祭りは」ダリは窓の外の夜景を見ながら、言った。「いちばん楽しいときが、いちばん終わりに近いんです。全員が勝っている、というのは、全員が同じ側に乗っている、ということ。八月の百六十円の船と、同じ。今度は上向きの船ですが、片側に寄りきっている、ことに変わりは、ない。──いつか、この船も、傾きます。今度は上から、下へ。そのとき、今夜、当たって、全力で、乗った人ほど、大きく、落ちる」
彼女はわたしのほうを見た。
「でも、それは」ダリは言った。「まだ、先です。このお祭りは、まだ当分、続く。年末まで、たぶん上がり続ける。──怖いのは、いつ、終わるか、じゃ、ありません。みんなが、"もう、終わらない"と信じきった、その瞬間です。それが、来るのは、たぶん年が明けてから。冬のいちばん深いところで。──そのとき、わたしの相場がまた始まります」
わたしはその言葉を手帳に書きつけた。冬のいちばん深いところ。──ダリはまた川上を見ていた。誰も、見ていない、上流を。世界中がトランプ・トレードの祭りに沸いている、そのまっただ中で。彼女だけが、その祭りの向こうに来るべき、次の崖の輪郭を静かに見つめていた。
窓の外では、十一月の夜が更けていた。世界は次の覇者を選んだ。そして、その選択に世界中の金が群がり、熱狂の祭りが、始まっていた。わたしはその祭りのいちばん外側のいちばん冷たい部屋から、それを見ていた。──もう、二か月前のわたしとは、違う目で。
第26節|最高値の行列
十一月が深まるにつれて、祭りは、為替を飛び出して、あらゆるものに燃え広がった。
株が上がった。ドルが上がった。そして、暗号資産が──ビットコインが最高値を次々に更新した。新しい、大統領が暗号資産に好意的だ、という、期待が火に油を注いだ。ひと桁、万ドルだった、はずの値がいつのまにか、十万ドルの大台をうかがっていた。テレビがそれを連日、報じた。街のニュースも、居酒屋の話題も、みんな、同じだった。何を買っても、上がる。乗り遅れるな。
わたしはヒナの勤める、証券会社の支店の前を通りかかって、足を止めた。
行列ができていた。
平日の昼間だというのに。若い、会社員ふうの人。買い物袋を提げた、主婦。そして、杖をついた、年配の人まで。みんな、口座を作りにあるいは、買い増しに来ていた。窓口の向こうで、ヒナが完璧な、営業の笑顔で、応対しているのが、ガラス越しに見えた。──その笑顔のいちばん奥にわたしは疲れの色を読んだ。
夜、ヒナから、電話が来た。
「見た? 昼間」彼女は言った。声がひどく、疲れていた。「行列。──最高値で、買いたい、って、人が行列を作るの。ねえ、直美。おかしいと思わない? 安いときには、誰も、来ないの。八月に暴落したとき、支店は閑古鳥だった。なのにいま、いちばん高くなったら、行列。──人は安いものを怖がって、高いものに群がる。逆なのに。完全に逆なのに」
* * *
「今日、ね」ヒナは続けた。「ひとり、忘れられない、お客さんが、いたの」
わたしは黙って、聞いた。
「二十代の男の子」ヒナは言った。「フリーターで、貯金、ほとんど、ないって。でも、"友達が暗号資産で、儲けた"って。自分も、やりたいって。──それで、消費者金融で、借りて、その借りた金で、ビットコインを買いたい、って、言うの。最高値で。借金して」
わたしの胸が冷たくなった。
借金して。最高値で。──父と、同じだった。父も、そうやって、穴を埋めようと、もっと、大きな、材木を担いだ。ロット。証拠金。督促の電話。
「止めたの」ヒナは言った。「わたし、必死に止めた。今日はやめましょう、って。借金で、投資は絶対にだめですって。──そしたら、あの子、なんて、言ったと思う?」
「……何て」
「"じゃあ、いいです。ネットの業者で、やります"って」ヒナは言った。声が震えていた。「"あなたの会社が売ってくれないなら、もっと、簡単に貸してくれて、もっと、大きく、賭けられる、業者がいくらでも、あるんで"って。──そう言って、帰っていった。わたしが止めたことに何の意味も、なかった。わたしが売らなくても、あの子はもっと、悪いところで、もっと、大きく、賭ける。わたしはただ手数料を逃しただけ」
わたしはソープのノートを思い出した。あの漏斗。いちばん下にヒナのような、まっとうな、証券会社があって、そのさらに下にもっと、簡単に貸して、もっと、大きく、賭けさせる、業者がいる。ヒナが一人を止めても、その一人はただ漏斗のもっと、下の口へ滑り落ちていくだけ。構造は入口をいくつも、持っている。一つを塞いでも、水は別の口から、流れ込む。
「ヒナ」わたしは言った。「あなたが止めたのは、無駄じゃ、ない」
「無駄だよ」ヒナは言った。「だって、あの子、行っちゃった」
「でも、あなたは」わたしは言った。「"借金で、投資はだめだ"って、言った。あの子はそれを聞いた。今日は聞かなかったかもしれない。でも、その言葉はあの子のどこかに残る。半年後か、一年後か。全部、失ったとき。ふと思い出すかもしれない。あの証券会社のお姉さんが、止めてくれたな、って。──遅れて、届く手紙、だよ。今日は届かない。でも、いつか」
電話の向こうで、ヒナが少し、黙った。それから、掠れた声で、言った。
「……直美はそうやって、書いてるんだね。その記事を」
「うん」わたしは言った。「今日、届かない、手紙を。──ねえ、ヒナ。あなたも、書けば? いや、書かなくても、いい。あなたは店頭で、それをやってる。売らない、っていう、いちばん難しいことを。──あなたはもう構造の下っ端じゃ、ないよ。構造の内側から、それに逆らってる、たった一人だ」
* * *
その週末、わたしは戦時室で、その話をした。
「熱狂が新しい人を呑み始めています」わたしは言った。「借金してまで、最高値を買おうとする、若い子まで。──八月にあれだけの暴落があったのに。三か月で、みんな、忘れて。もっと、大きく、賭けてる」
ケニーがコインを転がしながら、頷いた。
「そういうもんだ」彼は言った。「暴落は記憶に残らん。祭りだけが、残る。──人は痛みより、快楽をよく、覚える。八月の痛みは、三か月で、忘れる。だが、"あのとき、握ってたら、儲かった"っていう、後悔は一生、残る。だから、次は握る。もっと、大きく。──熱狂ってのは、そうやって、前の暴落の後悔を燃料にして、燃え広がるんだ」
ダリが窓辺で、静かに言った。
「いま、この瞬間が」彼女は言った。「いちばん危ないんです。全員が勝っている。全員が"もう、下がらない"と思い始めている。借金してでも、乗ろうとする人が出てくる。──これは、天井の匂いです。まだ、天井、そのものじゃ、ない。でも、天井の匂いは、もうしてる。あとは、いつ、それが、来るか」
「いつ、来るんですか」わたしは訊いた。
「わかりません」ダリは言った。「明日かも、しれないし、三か月後かも、しれない。天井の時刻は誰にも、取れない。──でも、一つだけ、確かです。今夜、行列を作って、最高値を買った人ほど、それが、来たとき、いちばん大きく、落ちる。借金して、買った、あの若い子がもし、天井を掴んでいたら──」
彼女はそこで、言葉を切った。言わなくても、わたしには、わかった。
わたしはその夜、自分の無力さを噛みしめていた。わたしは変わった。もう、この熱狂の船の行き先が見える。いつか、傾くことも。今夜、最高値を掴んだ人がいちばん大きく、落ちることも。──なのにわたしには、それを止める、力がなかった。記事を書いても、熱狂のまっただ中にいる人は読まない。読んでも、"自分だけは、違う"と思う。父がそう、思ったように。桑原さんが、そう、思ったように。
これが、ダリの"早すぎる"の正体なのだ、と、わたしは思った。見えているのに止められない。正しいのに届かない。ダリはそれを相場で、味わってきた。わたしはそれを記事で、味わっている。見える、ということは、祝福では、なかった。それは、止められない、ものを見続ける、という、静かな、拷問だった。
* * *
十一月が終わろうとしていた。
相場はまだ上がっていた。ドル円は百五十四円台。株は四万円をうかがう。ビットコインは十万ドルの大台に手を伸ばしていた。世界中が勝っていた。祭りは、絶頂に近づいていた。
わたしの記事は──暴落のあとに書いた、あの「戻る数字と、戻らない人」の続編は──今度は社会面の隅では、なく、少し、大きな、扱いで、載った。熱狂のいちばん盛り上がっている、この時期に。〈祭りのあとに来るもの〉という、見出しで。松子がつけた、見出しだった。
「こんな時期に」わたしは松子に言った。「みんなが、勝ってる、こんな時期に。誰も、読まないんじゃ」
「読まないさ」松子は言った。赤ペンを置いて。「祭りのまっただ中で、"祭りは、終わる"なんて、記事を読みたがる奴はいない。──だが、いいか、七瀬。祭りのあとに必ず、誰かが、この記事を思い出す。あのとき、こんなことを書いてた記者がいたな、って。そのときには、もう遅い。だが、その"遅い"を経験した人間が次の祭りのとき、少しだけ、賢くなる。──新聞ってのはな、間に合わない、手紙を書き続ける、仕事だ。間に合わないと、わかってて、書く。それでも、書く。書かなきゃ、次の次にも、間に合わないからだ」
わたしはその言葉を胸に刻んだ。窓の外では、冬が近づいていた。ダリの言う、"冬のいちばん深いところ"が。祭りの絶頂の向こうに。誰も、見ていない、次の崖が。そして、その崖が来るまでのあいだ。わたしは間に合わない、手紙を書き続けるのだ。ヒナが店頭で、届かない、"やめましょう"を言い続けるように。ダリが早すぎる、川上を見続けるように。
第27節|選ばれる国
十二月に入った。
秋の三つの選挙が終わっていた。日本の与党が党首を選び。日本の有権者が政治を選び。そして、世界が次の覇者を選んだ。そのたびに世界中の金はどの国に集まるかを選び直した。──選ばれる国があって、選ばれない国があった。その選択のたびに相場は跳ねて、崩れて、また跳ねた。何万もの人がその跳ね返りに乗ってあるいは、轢かれて。当たった人が英雄になり、外れた人が消えた。
為替とは、つまるところ、世界中の金がどの国を選ぶかの人気投票だ。──ケニーが秋のはじめに言った、その言葉の意味をわたしはこの三か月で、骨身に染みて、覚えた。
デスクはその秋を生き延びた。
派手な、勝ちでは、なかった。選挙の往復を全部、取った、ヘリオスに比べれば、儲けは、たぶん半分にも、満たなかった。それでも、四人は飛ばなかった。政治の丁半には、乗らず。トランプ・トレードの初動は譲り。押し目で、規律で、乗った、ぶんだけを静かに積み上げた。年初来の数字は目標の三割五分には、まだ届かない。けれど、馘首の二割の線からは、もうはるか、遠くへ来ていた。霧島のあの冷たい、視線がしばらくは、遠のく、ところまで。
「これで、いいんですか」わたしはケニーに訊いた。「ヘリオスの半分しか、稼げなくて」
「いいんだ」ケニーは言った。「ヘリオスは往復を全部、取って、たまに飛ぶ。俺たちは、半分を逃して、絶対に飛ばない。──十年、続けてみろ。飛んだ回数の差が出る。飛ばなかった、ぶんの複利が効く。派手な、奴は目立つが、生き残るのは、地味な、奴だ。それが、この商売のいちばんの秘密だ」
* * *
その十二月。わたしは自分の周りに奇妙な、人の輪ができていることに気づいた。
ヒナ。証券会社の店頭で、"売らない"を覚え始めた、構造の内側の良心。──シーム。ヘリオスの機械の隣で、"最悪を考えてください"と言い続ける、捕食者の内側の良心。──藤森さん。小さく、ゆっくり生き残る、テクニカル論者。──そして、この戦時室の四人。
みんな、違う、場所にいた。証券会社。ヘリオス。焼鳥屋の隣の店。私設ファンド。互いに面識も、ない。けれど、わたしの取材ノートの中では、その名前が少しずつ、繋がり始めていた。──彼らは、みんな、同じ、ものを抱えていた。この"潰しても、湧く"構造の内側にいながら、その構造に静かに逆らっている、という、こと。売らない。飛ばない。最悪を考える。小さく、生き残る。──派手では、ない。賞賛されない。むしろ、それぞれの場所で、"営業失格"だとか、"遅い"だとか、言われている。けれど、彼らこそが、たぶんこの構造の唯一の抗体だった。
わたしはふと思った。わたしの書く記事はたぶんこの抗体たちを繋ぐためのものなのだ、と。バラバラの場所で、孤独に"売らない"をやっている、ヒナのような人。孤独に"最悪を考える"をやっている、シームのような人。彼らにあなたは一人じゃ、ない、と、伝える。遅れて、届く手紙は崖の手前の誰かにだけでなく。構造の内側で、迷っている、良心にも、届く。
シームから、その週、めずらしく、短くない、メッセージが来た。
〈ブリンさんのやり方は正しい。今年、うちのデスクはたぶん社内で、いちばん稼いだ。でも、僕は最近、あなたの記事を読んでます。"戻る数字と、戻らない人"。──僕は機械の隣で、戻らない人を"流動性"って、呼んで、そこから、稼いでる。ブリンさんみたいに割り切れたら、楽なんでしょうね。でも、僕は割り切れない。割り切れないまま、稼いでる。それが、いちばんたちが、悪いのかも、しれない〉
わたしはそのメッセージを長いこと、見ていた。シームはわたしの暗い、鏡像だった。同じ、痛みを抱えて、けれど、反対の岸に立った、人。彼は割り切れないまま、捕食者の側で、稼いでいる。わたしは割り切れないまま、記者の側で、書いている。──いつか、彼がその岸を渡ってくる日が来るのだろうか。それとも、割り切れないまま、あの冷たい岸で、ブリンのようになっていくのだろうか。わたしには、わからなかった。
* * *
年の瀬が近づいた、ある夜。ケニーがめずらしく、ひとりで、モニターの前に座っていた。
わたしは思い切って、隣に座った。霧島のことを訊きたかった。あなたと、霧島さんは、昔、何だったのか。何百人を踊らせた、というのは。──けれど、口を開く前にケニーが言った。わたしの心を読んだみたいに。
「まだ、話さんぞ」彼はコインを転がしながら、言った。「霧島のことも。俺の昔のことも。──だが、一つだけ、言っておく。あんた、この秋、変わったな。乗り込んできた、頃は俺たちを憎んでた。次は俺たちを好きになりかけた。──いまは、どっちでも、ない。俺たちを"知ろう"としてる。好きでも、嫌いでもなく。それが、いちばん記者らしい、目だ」
「ケニーさん」わたしは言った。「あなたの過去を知ったら。わたしはあなたを嫌いになるかも、しれません」
「なるかもな」ケニーは笑った。「そのときは、そのときだ。──だが、覚えとけ。人はいちばん悪いことをした奴がいちばんそれを償おうとすることが、ある。俺の公開採点も、この部屋も、たぶんその償いの形だ。あんたが、俺の過去を掘り当てて、それでも、この部屋の"いま"に意味があると、思えるなら。あんたは、たぶんこの商売のいちばん大事なことをわかったってことだ。──人は変われる。だが、変わった、からって、やったことは、消えない。その両方を抱えて、生きる。それが、償いだ」
わたしはその言葉を胸にしまった。掘り当てる日はいつか、来る。けれど、まだだ。今はまだ。
* * *
その年末。ダリが窓辺で、わたしを呼んだ。
「記者さん」彼女は窓の外の暮れる街を見ながら、言った。「秋は政治の季節でした。人が人を選ぶ、季節。──でも、政治の濁流はそろそろ、澄みます。そして、その下から、また大きな、地形が見えてくる。わたしの季節が戻ってきます」
「冬、ですか」わたしは訊いた。
「冬です」ダリは言った。「まず、日本の中央銀行がもう一度、動きます。冬のあいだに。夏に市場をあれだけ、揺らして、それきり、慎重になっていた、あの中央銀行が。もう一度、金利に手をかける。──それから、海の向こうで、新しい、大統領が就任する。そして、就任した、その人が何をするか。世界はまだ"減税で、株高"のいい夢しか、見ていない。でも、あの人はもう一つ、大きな、武器を持っている。関税です」
彼女はわたしのほうを見た。涼しい目にまたあの川上を見る、光があった。
「いまのこのお祭りは」ダリは言った。「年末まで、たぶん続きます。全員が勝って。全員が"もう、下がらない"と信じて。──でも、冬のいちばん深いところで、最初の亀裂が来ます。誰も、予想していない、方向から。そして、本当の嵐は──春です。関税の春。そのとき、この"選ばれる国"の祭りが、どう、終わるのかをあなたは見ることになる」
わたしは窓の外を見た。
十二月の街はイルミネーションで、輝いていた。人々は忘年会に向かい、来年の話をしていた。相場は四万円をうかがい、ビットコインは十万ドルに手を伸ばし、誰もが、来年も、この祭りが、続くと信じていた。──その輝きの向こうに。ダリの言う、冬の亀裂と、春の嵐がまだ誰にも、見えない、輪郭で、待っていた。
わたしはもう二か月前のわたしとは、違った。
憎しみを鞄に詰めて、敵地に乗り込んだ、あのわたしでも。この部屋を正直な、いい人たちの部屋だと思い込んで、安心しかけた、あのわたしでも、なかった。わたしはいま、この"選ばれる国"のいちばん内側で。構造の内側で、静かに逆らう、抗体たちを繋ぎながら。このいちばん正直に見える部屋のいちばん奥に埋まった、秘密を掘る、覚悟を抱えながら。そして、見えているのに止められない、という、静かな、拷問を引き受けながら。──それでも、間に合わない、手紙を書き続けると、決めた、ひとりの記者だった。
どこに立つか。──秋は国が選ばれる、季節だった。そして、わたしはその秋のあいだに自分がどこに立つのかをまた一歩、選んでいた。断罪でも、なく。改宗でも、なく。構造の内側で、それに逆らう人たちの隣に。遅れて、届く手紙の送り手として。
冬が来る。
そして、ダリの相場がまた始まろうと、していた。本当の嵐は春。それをわたしはこの冷たい部屋のいちばん内側から、見届けることになる。──選ばれる国の祭りが、どう、終わり。誰が生き残り、誰がまた消えるのかを。
国が国を選び、市場が国を選んだ秋。飛びついた者は熱に食われ、待った者だけが残った。だが、正直に見えるあの部屋の、いちばん奥に埋まった秘密は、まだ全貌を見せていない。年の瀬、日本の中央銀行がふたたび舵を切り、海の向こうでは新しい大統領が就任する。そして年明け、誰も予期しない一報が、市場の足元をすくう。
第2部「選ばれる国」完。第3部「環境が回る」(第四弾・2024年末〜2025年初の日銀転換/トランプ就任/DeepSeekショック)は公開中。
→ 第四弾「環境が回る」を読む / 第二弾「令和のブラックマンデー」 / 目次