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連載小説 · 第二弾 約50分で読む 第8〜15節 · 第1部完結 フィクション · 実在の人物・団体・銘柄とは無関係 · 投資助言ではない

連載小説『為替の正体』· 第二弾 令和のブラックマンデー 半年間、嘲笑されながら血を流してきた女の賭けが、ついに報われる——その同じ日に、画面の向こうの無数の誰かが、崖から足を踏み外す。

第一弾「七月の攻防」の続き。八月五日、東京の市場が戦後最大の崩落を記録する。戦時室の四人が払い続けた「最悪」の代金と、 「下がったら買い」と笑う群衆。報われる正しさと、救えなかったもの——第二弾(第8〜15節・第1部完結)。

第8節|水準感

その週、相場は迷っていた。

迷う、という言葉をわたしはそれまで、為替に使ったことがなかった。数字は上がるか、下がるか、どちらかだと思っていた。けれど、その週のドル円はどちらでもなかった。七月の二十二日から、相場は坂を転がるでもなく、ただずるずると、足を滑らせていた。百五十四円、百五十三円。誰かが大きく売ったわけでも、当局が突き飛ばしたわけでもない。買い続けてきた船が少しずつ、ためらい始めていた。木曜の二十五日、価格はふいに百五十一円九十四銭をつけた。七月のはじめ、百六十二円に手が届きそうだった相場がひと月足らずで、十円。

わたしはその数字を部屋の隅のパイプ椅子から、見ていた。

通い始めて、二週間になっていた。最初の日、ソープに「お茶は出ません」と言われた、その椅子はいつのまにか、わたしの席のようになっていた。誰も、わたしに何も言わなくなった。歓迎されたわけではない。ただ、観葉植物が二週間、枯れずにそこにいると、人はそれを風景として、受け入れる。わたしはその部屋の風景になりつつあった。風景はよく見える。当人たちが、見られていることを忘れるからだ。

その日、わたしが見ていたのは、ジョーンズの左手だった。

彼は右手で、ひっきりなしにキーを打ちながら、左手で、机の上の消しゴムを転がしていた。古い、角の丸くなった、白い消しゴム。それを人差し指と中指で挟んで、机の上で、立てて、倒して、また立てる。立てて、倒して。彼自身はたぶんそれに気づいていない。数字が自分の予想どおりに動いているときは、消しゴムは机の上に置かれたままだ。数字が予想から、ほんの少し、外れ始めると、左手が動き出す。立てて、倒して。それが、ジョーンズの不安の目盛りだった。

その週、消しゴムはずっと動いていた。

「百五十一円台」ケニーがモニターの隅を見て、言った。「魔女様の言ったとおり、坂を下りてるな。だが、こいつは、まだ序の口だ」

「序の口、ですか」わたしはつい、口を挟んだ。「ひと月で、十円ですよ」

ケニーがわたしのほうを見て、皺の奥で、少しだけ、笑った。コインが関節の上をくるりと回る。

「十円。あんた、それを大きいと思うか」

「思います。普通は」

「普通はな」ケニーは頷いた。「だが、この相場の本当の大きさは、十円ぽっちじゃない。世界中の連中がひとつの船の片側にこれだけ、乗ってる。十七年ぶりだ。その船が傾いて、ようやく、十円。傾きが、転覆に変わったとき、十円は一日で、来る。──それをこいつらは、待ってる」

こいつら、と、ケニーは部屋の三人を顎で示した。窓を見ているダリ。キーを打つジョーンズ。電卓を几帳面に机の縁と平行に直しているソープ。誰も、振り向かなかった。

* * *

その日の午後、わたしは初めて、この部屋の本当の重さを知った。

きっかけは、些細なことだった。ケニーが席を立ったとき、机の上に一枚の紙が伏せて置かれていた。わたしは覗くつもりは、なかった。けれど、風が——エアコンの風がその紙をめくった。一瞬だった。数字が見えた。

〈運用資産 80億〉。そして、その下に赤い字で、〈年初来 +一一・二%〉。さらにその横にもう一つ、線の引かれた数字。〈目標 +三五%〉。

わたしは目を逸らした。逸らしたつもりだった。けれど、ケニーが戻ってきて、わたしの視線の行き先を読んだ。彼は人の顔の書いていないところを読む。松子と、同じ種類の目だ。

「見たな」

隠しても、無駄だった。「……すみません。風で、めくれて」

ケニーは怒らなかった。むしろ、その紙を自分で、表に返して、わたしのほうへ滑らせた。

「いい機会だ。あんた、勘違いしてるからな」ケニーは椅子に深く、腰を下ろした。「あんた、ここをなんだと思ってる。他人の金を数字みたいに転がして、勝った負けたと笑ってる、上等な博打場。そう思って、乗り込んできただろう」

図星だった。わたしは何も、言えなかった。

「八十億」ケニーはその数字を指で、とん、と叩いた。「霧島さんが——うちに金を出してる人だ——預けてる。それをこの四人で、回してる。目標は年に三五パーセント、増やすこと。三五だぞ。世界中のでかいファンドが二十取れれば御の字、って世界でだ」

「……どうして、そんなに」

「そうしないと、潰れるからだ」ケニーはあっさりと言った。「正直なエッジで、嘘に勝てる。それを証明する。霧島さんは、それに金を出してる。証明ってのは、数字でしか、できない。三五を出せなきゃ、ただの口だけのいい人だ」

彼は赤い字の〈+一一・二%〉を指した。

「いまは、年初来で、十一しか、ない。半年で、十一だ。このペースじゃ、年で、二十二。届かない」ケニーの声がわずかに低くなった。「そして、もう一本、線がある。あんたには、見せない線だ。利回りが、二十を割ったら——その担当はここを出る。霧島さんとの約束だ。誰であろうと、な」

部屋の空気がその一言で、急に現実の重さを持った。

わたしは窓辺のダリを見た。涼しい横顔。さっきまで、わたしが近寄りがたいと思っていた、あの何もかも見透かしたような女。その彼女が六月の終わりから、まだ誰の目にも見えないうちに円を買っていた。早すぎる、と、嘲笑されながら。ずっと、含み損を抱えながら。

「ダリの建玉は」わたしは声を落として、訊いた。「いま、どうなってるんですか」

ケニーは答えなかった。代わりにコインを止めた。それが、答えだった。

その十一パーセントをこの水準まで、削ったのは。年初来の利益を半年かけて、すり減らしたのは。たぶん、あの窓を見ている女の早すぎる賭けの出血だった。彼女は正しい。それは、この夏が終われば、証明される、かもしれない。けれど、証明される前に線を割るかもしれない。二十を割れば、彼女は自分の正しさが、世界に証明される、そのほんの少し手前で、この部屋から、いなくなる。

わたしは初めて、ダリのあの静けさが、怖くなった。

あれは、超然と、しているのではない。あれは、毎日、自分の正しさと、自分の馘首ラインとのほんの数パーセントの隙間で、息を止めているのだ。涼しい顔は彼女の覚悟の別名だった。

* * *

その夜、ダリが珍しく、わたしに声をかけた。

帰り支度をしていた、午後十時。ほかの三人はまだモニターの前にいた。ダリは窓の外の夜景を見たまま、誰にともなく、言った。

「記者さん。あなた、お父さんのこと、まだわたしに訊いてないですね」

わたしの手が止まった。

「最初の日にわたしが言い当てたのに。なぜ、知ってるんだ、って、問い質すと思っていました」ダリは続けた。「あなたは訊かなかった。記者なのに。──それは、訊くのが、怖かったから。答えをもらってしまうと、憎しみの宛先が変わってしまうかもしれないから。違いますか」

わたしは何も、言えなかった。

「わたしには、わかるんです」ダリは初めて、窓から、わたしのほうへ顔を向けた。夜の照明の中で、その目は昼間の涼しさとは、違って見えた。「人が間違った場所に有り金を賭けるとき。その目をわたしは知っている。──昔、わたしも、ひとりだけ、それを止められなかった人がいるからです」

彼女はそれ以上は言わなかった。すっと、また窓のほうへ顔を戻した。けれど、わたしは見てしまった。あの何もかも見透かしたような女の横顔に一瞬だけ、よぎった、別の表情を。それは、悔いによく似ていた。早すぎて、血を流す女には、たぶん早すぎて、救えなかった、誰かがいる。

わたしたちは二人とも、宛先のない、何かを抱えていた。

* * *

ソープのことをわたしは長いあいだ、いちばんわからなかった。

ダリには、悔いがあった。ジョーンズには、消しゴムという、不安の目盛りがあった。ケニーはぼやくし、笑う。けれど、ソープだけは、二週間、ほとんど、表情を変えなかった。瞬きさえ、惜しむように見えた。無地のニットを毎日、同じように着て、安物の腕時計を机の縁と、きっちり平行にこつ、と、直す。一日に何十回も。それが、彼の唯一の癖だった。

その日、わたしは思い切って、彼の机の横に立った。

「ソープさんは」わたしは訊いた。「怖くないんですか。八十億も、預かって。線を割ったら、クビなのに」

ソープは電卓から、目を上げなかった。けれど、答えた。

「怖い」感情のない声で。「だから、計算する。怖くない奴が飛ぶんだ」

「飛ぶ」

「破産だ」ソープは初めて、わたしのほうを見た。「いいか。この世界で、いちばん強いのは、当てる奴じゃない。飛ばない奴だ。どんなに勝率がよくても、一度、ぜんぶを賭けたら、いつか、ゼロを引く。ゼロを引いたら、終わりだ。勝率が九十九パーセントでも、終わりは、終わりだ。──だから、私は九十九を追わない。私が追うのは、たった一つ。最悪が来たとき、いくら、残るか。それだけだ」

彼は机の引き出しを少しだけ、開けた。中に一冊の古い、ノートが見えた。手書きの数字で、びっしりと、埋まっている。

「それは」

「業者の表だ」ソープは淡々と言った。「世間の為替の業者。客が損した分がどこへ流れるか。誰が誰を食ってるか。──私はそれを十年、つけてる」

わたしの心臓が跳ねた。

「どうして、そんなものを」

ソープはノートを閉じて、引き出しを戻した。それから、また電卓に目を落とした。長い、沈黙があった。彼がもう答えないのだと思った、そのとき。

「昔」ソープはぽつりと言った。「ひとり、見たんだ。飛ぶのを。すぐ、隣で。──そいつは、最後まで、自分の勝率を信じてた。勝率は本当によかった。だが、サイズが馬鹿だった。一回の最悪で、消えた。私はその数字を止められた。止められたのに計算を間違えた。間違えたんじゃ、ない。計算、しなかったんだ。仲間だから、大丈夫だと思った」

彼はそれきり、口を閉じた。腕時計をこつ、と、机の縁と、平行に直した。

わたしは初めて、わかった。あの何十回もの平行の癖は退屈では、なかった。あれは、毎回、自分に言い聞かせているのだ。ずれを許すな。最悪を先に払え。仲間だから、大丈夫だ、と、二度と思うな、と。冷たさは、彼の墓標だった。誰かを飛ばせてしまった、その墓標。

* * *

崖の外側の魚たちは、その週、いっそう、にぎやかだった。

帰りの電車で、わたしはいつものように桑原さんのSNSを見た。

彼ははしゃいでいた。〈下げ過ぎですね。十円も下げたら、さすがにそろそろ反発。ここは、絶好の押し目です〉。その投稿には、百を超える、いいね、がついていた。〈同じく買いました〉〈水準感、ありますよね〉〈先生も、ここは拾い時だと〉。何百人もが、同じ言葉を口にしていた。水準感。下げ過ぎ。そろそろ。

わたしはその「水準感」という、もっともらしい三文字を見つめた。

いつか、ダリが言っていた。下げ過ぎ、という感覚はいちばん高い、授業料だ、と。相場には、適正な値段、というものは、ない。あるのは、いま、誰がいちばん多く、持ちすぎているか、それだけだ。百五十二円が安いか、高いか。それを決めるのは、水準感では、ない。

翌日、相場は桑原さんを一瞬、報いた。

理由はなかった。本当に何も、なかった。観測報道も、指標も、発言も。ただ、売られ過ぎた反動で、相場は百五十二円から、百五十四円台へ自律的に戻した。百五十四円七十四銭。桑原さんの含み損はつかのま、含み益に変わった。

〈ほら! やっぱり、底でした! 水準感、大事〉。彼の投稿は勝ち誇っていた。

わたしはその投稿を部屋に持ち込んだ。半分は確かめたかったのだ。この戻りは、本物なのか。ダリの読みは、間違っていたのか。

ジョーンズがその「百五十四円七十四銭」を三秒だけ、見た。左手の消しゴムが立って、倒れた。

「理由のない戻りです」彼は早口で、言った。「下げ過ぎたものが、跳ねる。輪ゴムと、同じです。伸びきったものは、一度、縮む。でも、縮んだだけで、輪ゴムが強くなったわけじゃない。むしろ、ゴムはもう伸びきっている。──この戻りで、買った人はいちばん悪い場所に立っています」

「悪い場所」

「次に本当に切れたとき」ジョーンズはモニターに目を戻した。「いちばん高いところで、買った人から、順番に退場する。彼はいま、その列の最後尾を買い増している」

その言葉どおり、戻りは、続かなかった。百五十四円台はまたずるずると、崩れ、週の終わりには、百五十二円台へ戻っていた。桑原さんのつかのまの含み益は消え、また含み損になった。彼はそれでも、買い増した。〈一瞬、プラスになったってことは、底は近い。ナンピンして、平均を下げます。次で、取り返す〉。

次で、取り返す。

わたしはその五文字を見るたびに二十二秒の留守電を思い出す。世界はこんなにも、律儀に同じ言葉で、同じ顔を何度でも、刷り直す。

* * *

その週、わたしはもう一つの名前を覚えた。

ヘリオス。

最初にその名を口にしたのは、ソープだった。木曜の午後、相場が百五十一円台をつけたとき。短い戻りを誰かが、機械のような速さで、刈り取っていった。買って、二十分で、売り抜ける。また買って、また売る。価格のほんのわずかな、ねじれだけを舐めるように取っていく。人間の判断の速さでは、なかった。

「ヘリオスだな」ソープが電卓から、目を上げずに言った。感情のない声で。「また、回してる」

「ヘリオス?」わたしは訊いた。

「外資のクオンツだ」答えたのは、ケニーだった。コインが止まった。「でかい。速い。冷たい。うちが、八十億で、四人なら、あっちは、その何百倍だ。何千億を機械で、回してる。──連中は相場の意味を考えない。歪みだけを舐める。腹も、減らない。眠りもしない。怖くもない」

「敵、ですか」

ケニーは少し、考えてから、首を振った。

「敵、ってのは、こっちを憎んでる相手のことだ。あいつらは、こっちのことなんか、見ちゃいない。象が足元の蟻を見ないようにな。──だが、同じ池の同じ餌を奪い合ってる。それは、確かだ。そして、池が嵐になったとき」ケニーはコインを握り込んだ。「象も、足を滑らせる。そのとき、初めて、こっちを見る」

わたしはその「ヘリオス」という名を手帳に書きつけた。冷たくて、速くて、大きい、顔のない相手。父を呑んだ、配信者たちとは、まるで違う種類の何か。けれど、その夜、わたしはまだ知らなかった。その象の若い調教師のひとりが、来週、わたしに直接、声をかけてくることを。そして、その冷たい一言がわたしの安い正義感を根元から、揺さぶることを。

* * *

金曜の夜、わたしは藤森さんの店にいた。

ケニーが「飯くらい付き合え」と、また誘ったのだ。地下の小さなレストラン。常連のクマノフと、チカノフがもうカウンターの端で、できあがっていた。

「いや〜、やられた、やられた!」クマノフが赤ワインを呷って、笑っていた。「俺、火曜に百五十四円で、ドル買ったんだよ。水準感、あるなと思って。そしたら、金曜には、百五十二円だ。二円、溶けた」

「お前は」チカノフが白ワインを舐めて、ぼそりと言った。「上がってるものを上がってから買う。そして、下がってるものを底だと思って、買う。要するにいつ買っても、いちばん悪い場所だな」

「うるせえ。お前は怖くて、いつも買えねえじゃねえか」

「買えない、んじゃない。買わない、んだ。──機会を逃すのは、損じゃない。退場するのが、損だ」

わたしは思わず、小さく、笑った。

藤森さんが、わたしのグラスにワインを注ぎながら、にっこり、笑った。「七瀬さん。あの二人はね、もう十年、あそこで、同じ漫才をやってるんですよ。クマノフさんが、焼かれて、チカノフさんが、それを嗤う。チカノフさんが、買えなくて、クマノフさんが、それを嗤う。──でも、不思議とね、二人とも、十年、退場してない。お互いのいちばん痛いところを毎晩、突き合ってるからかも、しれませんね」

その夜、ダリは来なかった。

「魔女様は」ケニーがハウスワインを旨そうに飲みながら、言った。「来週が勝負だからな。今夜はひとりで、自分の数字と、にらめっこ、してるよ」

わたしはケニーの右手を見ていた。店の中でも、その指は無意識にコインを転がしていた。古い、すり減った、銀色のコイン。表の図柄はもうほとんど、消えている。

「それ」わたしは訊いた。「いつも、回してますよね。お守りか、何かですか」

ケニーの指が止まった。

彼はしばらくそのコインを手のひらに載せて、見ていた。それから、ふっと、息を吐いた。笑った、ようにも、見えたし、そうでない、ようにも、見えた。

「相棒のだ」ケニーは言った。低い声で。「昔、立会場で、一緒に声を張ってた男のな。あいつは、いい奴だった。腕も、よかった。──だが、一日で、消えた。三十七年前のある、月曜だ」

わたしは息を呑んだ。

「俺は生き残った。あいつは、飛んだ。俺たちの腕にたいした差はなかった。差はただ一つ。あの日、俺はたまたま、軽かった。あいつは、たまたま、重かった。それだけだ」ケニーはコインをまた関節の上に戻した。「だから、俺はこれを回す。当てたって、腕がいいって、威張るな、ってな。生き残るのは、半分、運だ。運に威張られちゃ、たまらん。──さあ、説教は終わりだ。飲め」

彼はそれきり、その話をしなかった。けれど、わたしはわかってしまった。この皺だらけの温かい男が四十年、繰り返してきた「待てなかった奴から、死ぬ」という言葉のいちばん奥に誰の顔があるのかを。三十七年前の月曜。その言葉の重さの出どころを。

「来週」

「水曜だ」ケニーはグラスを置いた。「日本の中央銀行が動くって噂だ。同じ日の夜中にアメリカの中央銀行も、動く。二つのでかい鐘が一日で、鳴る。──いいか、お嬢ちゃん。こういう日にな、いちばん混んだ船は舵が切れないんだ」

「どうして」

「全員が同じ側に立ってるからだ」ケニーの目が皺の奥で、光った。「逃げようとすると、出口が一つしかない。全員がいっせいにそこへ殺到する。出口はすぐ詰まる。詰まった船で、何が起きるか——」

彼はその先を言わなかった。代わりにナプキンで、口を拭いて、立ち上がった。

「来週、見てな。あんたが、書くべきものは、たぶんそこから、始まる」

帰り道、わたしは空を見上げた。梅雨はとうに明けていた。夏の夜の生ぬるい風が首筋を撫でた。何事もない、ただの金曜の夜だった。

その四日後に東京の市場が戦後最大の崩落を記録することを。そして、あの窓辺で、ひとり、息を止めている女の早すぎた賭けが、報われるのか、それとも、報われる、ほんの一歩、手前で、彼女が消えるのか——その答えが、たった、数日で、出ることを。

わたしはまだ知らなかった。

第9節|二つの鐘

水曜が近づくにつれて、部屋の静けさの質が変わった。

月曜も、火曜も、相場は坂を下りていた。百五十三円、百五十二円。木曜につけた百五十一円台には、届かないものの戻りは、弱く、上値は重かった。船はまだ片側に傾いたまま、けれど、舳先は明らかに下を向き始めていた。

わたしはその二日間、部屋の空気の張りを計っていた。誰も、口を開かない。けれど、沈黙の密度が違う。ジョーンズの消しゴムはもう立てて、倒して、という、のんびりした、リズムでは、なかった。指の先で、せわしなく、転がされ、ときどき机から、落ちた。彼はそれを拾って、また転がした。ソープはいつもの倍の速さで、腕時計を机の縁に平行に直していた。こつ。こつ。秒針より、速い。

ダリだけが、動かなかった。

窓辺のその背中は二日間、ほとんど、同じ場所にあった。涼しい、と、わたしは最初の日、思った。けれど、いまは、わかる。あれは、涼しさではない。あれは、二日間、息を止めている、人間の背中だ。年初来、プラス十一パーセント。目標の三五には、遠く、馘首の二十には、近い。そのわずかな隙間で、彼女は半年、削られ続けてきた。そして、その削られた利益のぜんぶを取り返せるか、それとも、線を割って、消えるか——その答えが、明日、水曜に鳴る、二つの鐘で、決まろうとしていた。

火曜の夜、わたしは思い切って、その背中に声をかけた。

「ダリさん。怖く、ないですか」

ソープにしたのと、同じ問いだった。ダリは振り向かなかった。けれど、しばらくして、低く、言った。

「怖いのは、外すことじゃ、ありません」窓の外の夜景を見たまま。「正しくても、早すぎたら、人は退場する。わたしは半年、正しかった。半年、正しくて、半年、負けてきた。──怖いのは、明日、わたしの正しさが、ようやく、姿を見せる、そのたった一日、手前で、わたしがこの部屋から、いなくなることです」

その声に初めて、感情のふちが、滲んだ。

「でも、待つんですね」

「待ちます」ダリは言った。「ここで、慌てて、利を確定したら、半年の我慢がぜんぶ、無駄になる。──いちばん苦しいのは、底じゃ、ない。底の一歩手前です。あと一歩で、報われるのにその一歩がいちばん長い。たいていの人はそこで、手放す。父さんも」彼女は言いかけて、止めた。「……人はそこで、手放すんです」

父さんと聞こえた気がした。けれど、彼女はそれきり、口を閉じた。早すぎて、救えなかった、誰か。それが、誰なのか、わたしはまだ知らない。

* * *

水曜。七月三十一日。

ひとつめの鐘は昼に鳴った。

日本時間の正午過ぎ。日本の中央銀行が政策金利を引き上げた。〇・二五パーセント。わずか、と、笑う人もいた。けれど、それだけでは、なかった。同時に国債を買う量を減らしていく、と、踏み込んだ。長いあいだ、ずっとゼロに貼りついていた国だ。その国がようやく、舵を切った。

モニターのドル円が痙攣した。

わたしには、その動きが、まるで生き物の断末魔のように見えた。発表のその瞬間、価格はいったん、跳ね上がった。百五十三円九十一銭。「ほら、利上げなんて、関係ない」と、船の上の誰かが、笑った気がした。けれど、それは、ほんの数十秒だった。総裁が会見で、次の利上げも、ためらわない、という顔を見せた瞬間。床が抜けた。

百五十三円が百五十二円を割り、百五十一円六十銭まで、滑り落ちた。一時間で、二円三十銭の往復。船が軋む音が聞こえる、ようだった。

ジョーンズの机の上の数字がいっせいに色を変えた。

「来ました」彼は早口で、けれど、その声には、抑えきれない、熱があった。「私のシステムが明確な、売りを示しています。確証、十分。これは、印象じゃ、ない。事実がダリの印象に追いつきました」

ダリが窓から、目を離した。

半年、削られてきた、その建玉がいま、初めて、大きく、報われようとしていた。年初来の数字が削られた利益を取り戻し始める。馘首の線から、離れていく。

わたしは彼女がようやく、笑うのだと思った。当然だ。半年、嘲笑され、血を流し、息を止めてきた女がついに正しさを証明したのだ。

けれど、ダリは笑わなかった。

代わりに彼女はジョーンズのほうを見て、静かに言った。

「ここからは、わたしの相場じゃ、ありません」その声は震えていた。喜びでか、安堵でか、別の何かでか、わたしには、わからなかった。「マクロはもう誰の目にも、見えた。誰でも見えるものに儲けは、残らない。──ジョーンズ。ここから先はあなたの番です。価格がどう、壊れるか。それは、あなたの領分」

ジョーンズが一瞬、彼女を見た。

その目によぎったものをわたしは見逃さなかった。彼はいつか、効いていた、自分の戦略が陳腐化して、死んだ、と言っていた。エッジが減衰する、その痛みを知っている男だ。市場に嘲笑された、ことのある、男だ。その彼にいま、ダリがバトンを渡した。あなたの番だ、と。彼のせわしなかった、左手がふいに止まった。消しゴムが机の上に静かに置かれた。

「……引き受けます」ジョーンズは低く、言った。それだけだった。けれど、その一言に彼のすべてが、あった。

部屋の隅で、ソープが口を開いた。

「サイズを落とす」感情のない声。「今夜、もう一つ、鐘が鳴る。アメリカだ。二つの鐘のあいだに何が挟まってるか、誰にも、わからない。報われ始めた今こそ、欲を出すな。──最悪が来ても、笑っていられる分しか、持たない」

報われ始めた、その瞬間にサイズを落とす。

わたしはその判断の冷たさに震えた。普通の人間なら、ここで、増やす。やっと来た、と、張り増す。父なら、そうした。けれど、ソープは勝ち始めた、まさにその瞬間に賭け金を引いた。生き残る、というのは、勝ち始めても、欲張らない、ということ。それは、当てることより、ずっと難しい、何かだった。

* * *

崖の外側では、別の悲鳴が上がっていた。

円を売り続けてきた、配信者たちだ。「日本の中央銀行がこんなに動くわけがない」と、高をくくって、レバレッジを上げていた者ほど、踏み上げられた。買い戻しが、買い戻しを呼ぶ。

わたしは例の「無敗」の男のライブを覗いた。彼は汗を拭きながら、それでも、笑っていた。〈大丈夫、大丈夫。利上げは、もう織り込み済み。ここから、また円安に戻ります。むしろ、買い増しのチャンス〉。

その配信をジョーンズに見せた。彼は三秒、見て、目を戻した。

「彼のモデルには」早口で、言った。「中央銀行が本気を出す、という、入力がありません。過去のデータにそれが、なかったからです。だから、彼はそれを想定できない。想定できないものは、彼にとって、存在しない。──存在しないものにぶつかった戦略は検証の外で、死にます。OOS。アウト・オブ・サンプル。彼はいま、自分のサンプルの外に出た。気づかずに」

* * *

ふたつめの鐘は夜中に鳴った。

日本時間の深夜。海の向こうで、アメリカの中央銀行が金利を据え置いた。けれど、議長が会見で、九月の利下げを匂わせた。

わたしには、最初、その意味がわからなかった。けれど、ダリが窓を見たまま、教えてくれた。

「これで、両側です」静かに。「日本円を売って、ドルを買えば、儲かる。そのたった一つの理由は二つの国の金利の差でした。日本が金利を上げる。アメリカが金利を下げる。差が両側から、削られる。──円安の最後の言い訳がいま、消えました」

その夜、ドル円は百五十円を割った。百四十九円三十五銭。終値、百四十九円四十四銭。

ひと月前、百六十二円に手が届きそうだった相場が十三円、落ちていた。船はもう傾いている、どころでは、なかった。半分、水に浸かっていた。

* * *

その夜、わたしはその男に会った。

ビルを出たのは、午前一時を回っていた。雑居ビルの暗い、入り口の街灯の下に人影があった。仕立てのいい、薄手のコート。わたしと、そう変わらない、歳に見えた。けれど、その立ち方には、二十代のものではない、何か、冷えた、自信があった。

「七瀬さん。経済紙の」その男はわたしの名を知っていた。「あの部屋に出入りしてますね。REDFOXの」

「……あなたは」

「ブリン」男は軽く、頭を下げた。礼儀正しく。「ヘリオス・キャピタル。あなたが取材してる、あの四人の向かい側にいる人間です」

ヘリオス。冷たくて、速くて、大きい、顔のない象。その若い、調教師のひとりが、いま、わたしの目の前にいた。

「今日の往復」ブリンは夜空を見上げながら、言った。世間話のように。「二円三十銭のあの痙攣。ああいうのは、僕たちの餌です。人間が慌てて、押し合う、そのほんのわずかな、ねじれ。僕らは、それを一日に何百回も、舐める。腹は減らないし、眠くも、ならない。今日も、あの部屋の四人より、僕らのほうが、たぶん稼いでいる。彼らが、半年、息を止めて、ようやく、報われたぶんを僕らは、今日一日で」

その口調に自慢はなかった。それが、いっそう、寒かった。

「あなたたちは」わたしは言った。「人の損を舐めて、生きてるんですね」

ブリンは初めて、わたしのほうを見た。少しだけ、面白そうに。

「あなた、あの部屋を特別だと思ってる」彼は言った。「正直で、温かい、って。──でもね、七瀬さん。あの四人が今日、儲けた、その金はどこから、来たと思います? 円を売り続けて、踏み上げられた、あの配信を見てる人たちの財布からですよ。あなたの取材してる、桑原さん、でしたっけ。あの人の損も、その中に混じってる。あの部屋はそれを知ってて、儲けてる。違いますか」

心臓が嫌な、打ち方をした。

「僕らと、あの四人の違いは、一つだけ」ブリンは続けた。「僕らは、それを隠さない。流動性だと言う。彼らは、それを知ってて、生き残れ、とか、公開採点だ、とか、優しい言葉で、化粧する。どっちが、正直だと思います? ──人の損で、飯を食ってるのは、同じです。ただ、彼らは、それに罪悪感、っていう、税金を払ってるだけだ。その税金が判断を鈍らせる。感傷は遅さです。遅い船は刈られる。いずれ、僕が刈る」

彼はそれだけ、言うと、また礼儀正しく、頭を下げて、夜の中へ消えた。

わたしはしばらく動けなかった。

反論したかった。あの部屋は違う、と。あの四人は桑原さんを「ノイズ」と呼びながら、その「ノイズ」の人生が見えている。ケニーは見えてると言った。けれど——その「見えてる」と、ブリンの「隠さない」のあいだに本当に違いが、あるのか。同じ皿の同じ肉を食っているのは、事実では、ないのか。わたしがいつのまにか、あの部屋を美しいものとして、見始めていた、その足元をブリンの冷たい一言がすくった。

わたしは安い、正義感で、ここへ乗り込んできた。父を殺した側か、その対極か、白か、黒か。けれど、この世界はそんなに親切にできていなかった。

* * *

その夜、桑原さんから、メッセージが来た。

〈金利差が縮んでも、長い目で見れば、いつかは、また円安に戻ります。先生も、そう言ってます。一時的な、調整です。ナンピンして、平均を下げました。次で、取り返します〉

次で、取り返す。

わたしはその言葉をもう何度、見ただろう。父の二十二秒。画面の中の無数の誰か。そして、いま、桑原さん。──金利差という、最後の言い訳が消えた、その夜に。彼はまだ言い訳を探していた。長い目で見れば。いつかは。一時的な。それは、希望の言葉のふりをした、いちばん危ない、言葉だった。

わたしは返信を打てなかった。何を書けば、いいのか、わからなかった。逃げて、と書けば、取材者の一線を越える。書かなければ、またひとり、崖へ向かう人を見送ることになる。松子の言葉が蘇った。真実で、人は救えるのか。

翌朝、部屋に行くと、ダリが窓辺にいた。

「終わったと思ってる顔ですね」彼女はわたしを見ずに言った。「金利の言い訳が消えた。これで、円高に戻る。めでたし。──違います」

「違う?」

「金利は理由のある下げです」ダリは言った。「理由のある下げは、まだ優しい。誰もが、納得して、ゆっくり降りられる。──怖いのは、理由のない崖です。誰も、説明できないのに足元が抜ける。みんなが、同じ出口に殺到して、出口が詰まる。そういうのが、来ます。金利が地ならしを終えた、いま」

彼女は窓の外の夏の空を見た。よく晴れた、八月の入り口の空だった。

「たぶん、来週です」

第10節|サームという名の引き金

二つの鐘が鳴り終わった、その翌日から、部屋の不穏の源が変わった。

水曜までは、嵐の震源は日本にあった。日本の中央銀行が舵を切るか。円がどこまで、戻るか。けれど、木曜になると、モニターの明るい部分が入れ替わった。日本の数字が静まり、代わりに海の向こうのアメリカの数字がひとつ、またひとつ、赤く、灯り始めた。

八月一日、木曜。

アメリカの製造業の景況感が出た。四十六・八。わたしには、その数字の意味はわからなかった。けれど、部屋の空気で、わかった。良くない、数字だ。

「五十が分かれ目です」ジョーンズが訊いてもいないのに言った。早口で。けれど、その早口はいつもの自信の早口とは、違っていた。どこか、確かめるような、響きが、あった。「五十より上なら、工場は増えている。下なら、減っている。四十六・八は——縮んでいる。しかも、先月より、悪い」

その夜、アメリカの株が落ちた。大きな指数が五百近く、下げた。金利がするすると、低くなった。ドル円は百四十八円台から、百五十円の手前を行ったり来たり、落ち着かなかった。終値、百四十九円三十八銭。

わたしはジョーンズの左手を見ていた。消しゴムがまたせわしなく、転がっていた。バトンを受けた、あの夜、彼はそれを机に置いた。けれど、いま、また動いている。しかも、前より、速い。

「ジョーンズさん」わたしは訊いた。「何か、嫌な、感じが、するんですか」

彼は少し、間を置いてから、答えた。珍しく、ゆっくりと。

「私のシステムは」彼は言った。「過去から、できています。過去にこうなったら、次はこうなった。その繰り返しの模様を読む。──でも、ときどき相場は過去にない模様を作る。いくつもの糸がいつもと、違う、絡み方を始める。株と、債券と、為替がいつもの手をつながなくなる。そういうとき、私の模様は効かなくなる」

彼の指が消しゴムを落とした。彼はそれを拾わなかった。

「事実が」ジョーンズは低く、言った。「私の想定の外に出ようと、しています。それが、いちばん怖い。外したときより、ずっと」

* * *

八月二日、金曜。

その日の夜が来るのを部屋の全員が待っていた。アメリカの雇用統計。何人が働き始め、何人が職を失ったか。そのたった、ふた組の数字を。

日本時間の夜九時半。数字が出た。

新しく、増えた雇用は十一万四千。予想より、ずっと少なかった。そして、失業率が四・三パーセントに上がった。

「サームだ」ソープがぽつりと言った。電卓から、目を上げずに。

「サーム?」

「人の名前だ」答えたのは、ダリだった。窓辺から。「ある経済学者が見つけた、目安です。失業率がゆっくり底から、これだけ、上がったら——過去、ほぼ、例外なく、景気後退がもう始まっていた。その引き金の線を今夜、超えました。アメリカの労働が静かに崩れ始めている、という、合図です」

モニターの数字がまたいっせいに色を変えた。ドル円が百四十九円から、滑り落ちていく。百四十八円、百四十七円。夜の九時半過ぎから、為替が生き物のように暴れ始めた。百四十六円四十二銭。アメリカの株価指数も、大きく、崩れた。

部屋に緊張が走った。けれど、それは、勝っている緊張では、なかった。ダリの読みは、当たっている。円は上がっている。デスクの建玉は利益を生んでいる。なのに誰も、喜ばなかった。むしろ、勝っているのに部屋の空気は刻一刻と、重く、なっていった。

わたしには、それが、不思議だった。

「勝ってるのに」わたしはつい、口にした。「どうして、こんなに怖い顔をしてるんですか」

ケニーがコインを止めて、わたしを見た。

「いいか」彼は低く、言った。「相場ってのはな、嫌な動きをするときが、いちばん危ない。今夜のこの暴れ方。これは、誰かが、冷静に売ってるんじゃ、ない。みんなが、いっぺんにドアに向かって、走り出した、足音だ。──こういうのは、止まらない。週をまたいで、増幅する。月曜、日本が開いたとき、何が起きるか。それを考えると、勝ってることなんか、どうでも、よくなる」

* * *

ソープが立ち上がった。

二週間、わたしが見てきた中で、彼が自分から、立ち上がったのは、初めてだった。彼は四人の建玉をひとつずつ、確かめて、そして、淡々と言った。

「サイズを最小に落とす。今夜のうちに」

「最小?」ジョーンズが顔を上げた。「ソープ、いまは、私たちの相場です。ダリの読みが、当たって、これから——」

「だからだ」ソープは遮った。感情のない声で。けれど、その声には、有無を言わせない、何かが、あった。「土日、市場は閉まる。その間に世界がどう動くか、誰にも、わからない。月曜の寄り付きにぽっかり、穴が空いてるかもしれない。上にも、下にも。穴に落ちてから、サイズを考えても、遅い。──最悪を先に払っておく。勝ってる今、払うんだ。負けてからじゃ、払えない」

彼は自分の机に戻って、腕時計をこつ、と、机の縁に平行に直した。いつもより、ずっと長く、その指を時計に置いていた。

わたしはその横顔にふと第8節の夜、彼が見せた、あの引き出しのノートを思い出した。すぐ隣で、飛ぶのを見た男。止められたのに仲間だから、大丈夫だと思って、計算しなかった。──いま、彼はその夜のことを思い出しているのだ。週末の嫌な気配の向こうに彼はもう一度、あの隣の席の空白を見ている。だから、彼は勝っている今夜、いちばん臆病になる。臆病さは、彼の贖罪だった。

「月曜が」ソープは誰にともなく、言った。電卓を閉じながら。「来る」

* * *

崖の外側では、誰も、月曜を恐れていなかった。

金曜の夜、わたしは桑原さんのSNSを開いた。

〈やっと、押しました! 雇用統計で、ドル円、急落。これは、絶好の買い場です。アメリカが弱い? 一時的ですよ。むしろ、安く、ドルを仕込めるチャンス。次で、取り返します〉

その下に何百もの同じ声が並んでいた。〈サーム・ルール? なにそれ、美味しいの(笑)〉〈むずかしいことは、知らんけど、下がったら、買い〉〈新NISAは、ほったらかしが、正義。気絶しとけ〉〈今年から、始めたけど、こんなのただの押し目でしょ〉。

今年から、始めた。

わたしはその一行で、胸が詰まった。今年——新しい、少額の非課税の制度が始まった年。それまで、投資など、縁のなかった、何百万もの人が初めて、相場に足を踏み入れた、その年だ。彼らの多くは、まだ本物の暴落を見たことが、ない。下がったら、買い。気絶しとけ。それは、上がり続ける、相場でしか、通用しない、呪文だった。そして、彼らは、その呪文の有効期限がいつ、切れるのかを知らない。

わたしは戦時室の四人の怖い顔と、この屈託のない、群衆の声のあいだの深さにめまいが、した。同じ、週末を見ている。片方は最悪を先に払い、片方は押し目だと笑っている。その差は月曜に数字になる。

* * *

その金曜の深夜。わたしはもう一人のヘリオスに会った。

ビルの下では、なかった。帰り道のコンビニの前だった。声をかけてきたのは、わたしと、同じくらいの歳の男だった。ブリンのような、仕立てのいいコートは着ていなかった。くたびれた、パーカー。目の下に隈。

「七瀬さん、ですよね」彼は言った。「ヘリオスのシーム、です。──ブリンさんが、先日、失礼をしたと思って」

わたしは身構えた。また、あの冷たい論法が来るのだと。けれど、シームの声はブリンとは、違った。どこか、疲れていて、迷っていた。

「ブリンさんは」シームは夜空でなく、足元を見ながら、言った。「正しいんです。たぶん、ぜんぶ。感傷は遅さだ、っていうのも。──でも、今夜、ブリンさんは、週末に向けて、レバレッジを上げました。下がったところを月曜、機械がもっと、取りに行く、って。最悪なんか、来ない、っていう、顔で。僕は……それが、少し、怖かった。それだけ、言いたくて」

彼は自分でも、なぜ、こんなことを記者に話しているのか、わからない、という顔をしていた。

「あなたはなぜ、ヘリオスに」わたしは訊いた。

シームは一瞬、わたしを見た。その目の奥に何か、わたしのよく知っている、色があった。傷の色だ。けれど、彼はそれを言わなかった。

「……稼げるからです」彼は目を逸らして、言った。「正直なほうが、得だなんて、僕は信じてない。あなたの取材してる、あの部屋とは、違う。──じゃあ」

彼は足早に夜の中へ消えた。わたしはその背中を見送りながら、奇妙な、感覚に囚われた。あの男はわたしに似ている。同じ、傷を抱えて、けれど、まるで反対の岸に立っている。わたしがもし、あの夜、別の選択をしていたら——ヘリオスの冷たい岸に立っていたのは、わたしだったかもしれない。

* * *

土曜が来た。日曜が来た。

市場は閉まっていた。為替の数字は金曜の夜の百四十六円台で、凍りついたまま、動かなかった。けれど、それは、止まっている、のでは、なかった。日曜の夜、海外で、わずかに為替が動き始めたとき、ドル円は百四十五円台へもう一段、先に滑っていた。誰もいない、休日の薄い市場で、すでに床が軋み始めていた。

わたしはその週末、眠れなかった。

ソープの声が耳に残っていた。月曜が来る。シームの隈のある目が残っていた。最悪なんか、来ない、という顔。そして、桑原さんの屈託のない、声。気絶しとけ。──三つのまったく違う、覚悟と、無防備が同じ、月曜の夜明けに向かって、転がっていた。

わたしはまだ知らなかった。その月曜がただの月曜では、ないことを。それが、のちに「令和のブラックマンデー」と、呼ばれることを。そして、戦時室のあの息を止めた女の半年の賭けが、ついに報われる、その同じ日に画面の向こうの無数の桑原さんたちが、いっせいに崖から、足を踏み外すことを。

月曜が来る。

第11節|夜明け前

その日曜の夜をわたしはたぶん一生、忘れない。

何も、起きなかった、夜だからだ。市場は閉まっていた。数字は動かない。ニュースも、ない。世界はただ静かに夏の日曜の夜を過ごしていた。スーパーの安売りの惣菜。隣の部屋のテレビの笑い声。換気扇の唸り。あまりにも、平凡で、あまりにも、無防備な、夜だった。

その無防備さが、わたしには、怖かった。

わたしはアパートの狭い机で、眠れずにいた。スマートフォンの画面にドル円のチャートを出したまま。数字は金曜の夜の百四十六円台で、凍りついて、動かない。けれど、わたしはその凍った数字を見つめていた。動かない数字を見つめていると、自分の心臓の音がやけに大きく、聞こえた。

日付が変わった頃。海の向こうの薄い市場で、為替がわずかに動いた。

百四十五円台。

誰も、いないはずの休日の市場。取引する人の少ない、その薄い水の中で、ドル円は金曜の場所から、もう一段、静かに滑り落ちていた。百四十五円十八銭。誰かが、大きく、売ったのでは、ない。ただ、買い手がいない。支える手が誰も、いない。──床が人のいないところで、先に軋み始めていた。

わたしはその数字を見て、ソープの声を思い出した。月曜の寄り付きにぽっかり、穴が空いてるかもしれない。穴はもう空き始めていた。誰も、見ていない、日曜の夜に。

* * *

わたしはもう一度、二十二秒を聞いた。

三年と、四か月、消せずにいる、留守電。〈……直美か。あー、寝てるよな、こんな時間に。いや、いいんだ。大丈夫だから。次で、取り返すから〉。何百回、聞いただろう。けれど、その夜、わたしは初めて、その声の別のところを聞いた。

大丈夫だから。

父は大丈夫だからと言っていた。次で、取り返すから、の前に。──大丈夫じゃ、なかった人が最後に娘に残した言葉が大丈夫だから、だった。それは、娘を安心させるための嘘だったのか。それとも、自分自身に言い聞かせていた、最後の祈りだったのか。たぶん、両方だ。人はいちばん大丈夫じゃ、ないとき、いちばん大丈夫だからと言う。

いま、画面の中で、何万もの桑原さんたちが、言っている。大丈夫。一時的。押し目。──父と、同じ、言葉で。

わたしは立ち上がった。眠るのは、無理だった。始発には、まだ早い。それでも、わたしは着替えて、部屋を出た。あの戦時室に行きたかった。なぜと訊かれても、答えられない。ただ、この無防備な、夜明けをひとりで、待つのが、怖かった。

* * *

雑居ビルの四階に灯りが、ついていた。

日曜の夜明け前に誰がと思った。エレベーターはまた四階の手前で、ぐらりと、軋んだ。すりガラスのドアを開けて、わたしは息を呑んだ。

四人、全員がいた。

誰も、わたしを見なかった。けれど、誰も、驚かなかった。まるで、わたしが来ることを知っていたかのように。あるいは、誰が来ようと、どうでも、よかったのかもしれない。部屋はこれまでで、いちばん静かだった。静かすぎて、エアコンの低い唸りが、潮騒のように聞こえた。

ソープが電卓の前にいた。けれど、その電卓は鳴っていなかった。一度も。指は置かれているのに動かない。わたしは悟った。彼の計算はもう終わっているのだ。土曜のうちに。日曜のうちに。最悪はもうぜんぶ、払い終えた。あとは、それが、来るのを待つだけ。だから、電卓は沈黙していた。

ケニーの右手にコインはなかった。正確には、握り込まれていた。転がす音がしない。あの秒針のような、とん、とん、という音がない。三十七年前の月曜を生き延びた男がもう一つの月曜の夜明けを拳の中の相棒の形見と、一緒に待っていた。

ジョーンズの消しゴムは机の上に置かれたままだった。彼はそれを転がさなかった。せわしなく、動いていた左手がいまは、膝の上で、固く、組まれている。不安が目盛りを振り切って、もう計れなくなった、人間の手だった。

そして、ダリが窓辺にいた。

* * *

わたしは彼女の隣に立った。

窓の外はまだ暗かった。夜明け前の空がいちばん暗くなる、その時刻。東の空のいちばん下がほんのわずかに灰色になり始めていた。ダリはそのいちばん暗い空を見ていた。

「来ますね」彼女はわたしが隣に立ったのを見もせずに言った。

「ダリさんの建玉は」わたしは小声で、訊いた。「いま、どうなってるんですか」

「報われる、一歩手前です」ダリは言った。「半年、間違い続けて。やっと、正しさが、姿を見せる。──今日、たぶんわたしの賭けは、報われる。年初来の数字が目標に届くかもしれない。馘首の線から、ずっと遠くへ行ける」

「よかった、ですね」

ダリは答えなかった。長い、沈黙があった。やがて、彼女は暗い空を見たまま、ぽつりと言った。

「七瀬さん。わたしが昔、止められなかった人の話をしましたよね」

わたしは頷いた。火曜の夜の悔いの横顔を思い出した。

「父です」ダリは言った。あっさりと。けれど、そのあっさりさが、かえって、痛かった。「わたしの父。為替をやっていました。配信者でも、業者でも、ない。ただの普通の勤め人でした。でも、相場に魅入られた。わたしは大学で、ファイナンスを学んでいて、わかっていたんです。父のやり方が間違っていることが。サイズが馬鹿で、損切りが、できなくて、戻る、戻ると信じて、買い増している。──わたしは止めようとしました。何度も。数字で、説明しました。確率で、説明しました。でも、父は」

彼女の声が初めて、揺れた。

「父は娘の言うことを聞かなかった。父にとって、わたしはまだ小さな、女の子だったから。相場のことを何も、知らない。──正しさは、伝わらなかったんです。わたしがどれだけ、正しくても。早すぎても、遅すぎても、ない。ちょうど、間に合う、ときに言ったのに。正しさは、人を救わなかった」

わたしは息が止まった。

ダリの「早すぎる」は、相場の話だと思っていた。違った。彼女は人生で、たった一度、いちばん正しいタイミングで、いちばん正しいことを言って、それでも、父を救えなかった。だから、彼女は確かめずには、いられないのだ。自分の正しさが、いつか、何かを救えるのかを。だから、彼女は私設のファンドの窓辺で、ひとり、息を止めて、半年、血を流しながら、正しさが、報われる、その一日を待ち続けてきた。

「だから」わたしは震える声で、訊いた。「だから、今日が報われても、笑わないんですか」

ダリは初めて、わたしのほうを向いた。夜明け前の灰色の光の中で、その目は濡れて、見えた。

「相場に勝つことと」彼女は言った。「救いたかった人を救うことは。別のことだから、です。今日、わたしは勝つ。でも、それで、わたしの父が戻るわけじゃ、ない。あなたの桑原さんが、助かるわけじゃ、ない。──勝っても、救えないものは、救えない。それを知りながら、勝つんです。これが、わたしの選んだ、生き方です。笑える、わけが、ない」

部屋の隅で、ソープがぽつりと言った。誰にともなく。

「勝ちは」彼は沈黙した電卓を見たまま、言った。「生き残った、後で、数える。まだ、誰も、勝っていない。今日が終わるまで」

* * *

その同じ、夜明け前。

町外れの自動車修理工場の二階の四畳半でも、ひとつの灯りが、ついていた。

わたしの叔父。小宮さん。亡くなった、奥さんの写真の前で、その夜も、缶ビールを一本だけ、開けて。スマートフォンの画面にドル円の日足を出していた。百四十五円台。彼はその数字を長いこと、見ていた。

工場の二階に低い音量で、いつもの配信が流れていた。映像のない、三人の合成音声。一人がデータを断定し、一人が罠かもしれない、と、揺さぶり、一人がどうすれば、生き残れるんだ、と、問う。叔父はその声を子守唄のように聞きながら、誰にも、言わずにひとつの決断をしていた。

明日、何が来るか、わからん。

彼は自分のわずかな、持ち高を確かめた。生活費には、手をつけない。工具の金にも。決めた額しか、賭けない。ナンピンはしない。──そのたくさんの掟をもう一度、自分に確かめて。それから、明日の相場がどう、転んでも、自分は退場しない、ということを妻の写真に報告するみたいに小さく、頷いた。

灯りを消した。

彼は知らなかった。同じ夜明けを姪が敵地だと思っていた、あの戦時室で、待っていることを。彼が子守唄に聞いている、三人の声の生身の主たちと、姪が同じ部屋にいることを。そして、姪が追いかけている、桑原という男が同じ夜明けに向かって、まったく、逆の無防備さで、転がっていることを。

三つの部屋が。同じ、夜明けを待っていた。最悪を払い終えた部屋と、生き残る掟を確かめた部屋と、押し目だと笑ったまま、眠っている、無数の部屋が。

* * *

空が白んでいった。

灰色が薄い水色に変わり、雑居ビルの窓に夏の朝の光が差し込んだ。あれほど、暗かった空が嘘のように晴れていた。よく晴れた、八月の月曜の朝だった。

ジョーンズが膝の上の手をほどいた。ソープが沈黙していた電卓に初めて、指を置いた。ケニーが握り込んでいたコインを手のひらの上で、一度だけ、転がした。ダリが窓から、目を離した。

壁のモニターの時計が午前九時に近づいていく。

日本の市場が開く。

わたしはパイプ椅子に腰を下ろし、取材ノートを開いた。指が震えていた。何を書けばいいのか、わからなかった。ただ、これから、自分が目撃するものが、たぶん一生に一度の何かであることだけは、わかっていた。

午前九時。

日本が開いた。

第12節|令和のブラックマンデー

午前九時。日本が開いた。

最初の十五分はまだ坂だった。日経平均がずるずると、下げていく。先週末のアメリカの不安を引き継いで。けれど、それは、わたしにも、予想のついた、下げだった。下がるだろう、と、誰もが、思っていた、ぶんの下げ。

九時半を過ぎて、坂が崖に変わった。

モニターの緑と赤の数字がいっせいに赤く、染まった。日経平均の数字が千を超えて、下げた。二千。三千。わたしには、その速さが、信じられなかった。先週のドル円の一日四円が大きいと思っていた、そのわたしが。いま、目の前で、株価指数が一日で、四千を超えて、崩れていく。

「先物、止まりました」ジョーンズが言った。早口で。「サーキットブレーカー。強制的に取引を止める仕組みです。下げが、速すぎて、一回、冷やすために」

「冷えるんですか」わたしは訊いた。

「いいえ」彼は首を振った。「再開した瞬間、もっと、落ちます」

そのとおりだった。

ドル円も、崩れていた。百四十五円が百四十四円を割り、百四十三円。一直線では、なかった。痙攣しながら、跳ねながら、それでも、容赦なく、下へ下へ。買い手が消えていく。わたしには、画面の数字のその隙間が見えるようだった。本来、そこにあるはずの買い注文がない。ぽっかりと、空いている。価格がその空白に足を踏み外して、落ちていく。

* * *

「これは」ジョーンズがモニターに顔を近づけて、言った。彼の声に恐怖と、奇妙な、興奮が混じっていた。「人間が売ってるんじゃ、ない」

「どういうこと、ですか」

「平時に保険を売って、お金をもらっていた人たちが、いるんです」ジョーンズは画面を指で、なぞった。「相場は大きく、下がらない。そう、賭けて。保険を売って、こつこつ、稼いでいた。──でも、いま、相場がその賭けを裏切った。売った保険が牙を剝いた。彼らは、損を止めるために慌てて、株を売る。売れば、もっと、下がる。下がれば、もっと、保険が牙を剝く。だから、もっと、売る。──機械が自分の影に追われて、走ってるんです。影から、逃げようとして、影を踏んで、また逃げる。止まらない」

部屋の隅で、ソープが初めて、口を開いた。沈黙していた電卓を見たまま。

「買い手がいない」彼は感情のない声で、言った。「板に何も、ない。これは、もう値段じゃ、ない。──空白だ。空白には、底がない」

わたしはその言葉にぞっとした。空白には、底がない。

ドル円は百四十二円を割った。

* * *

わたしは戦時室の四人を見ていた。

部屋は勝っていた。ダリの円ロング。リスクオフの本玉。半年、含み損で、削られ続けてきた、あの建玉がいま、崖が深くなるごとにふくらんでいた。理屈の上では、この部屋はいま、大きく、勝っている。

なのに四人の誰一人、勝者の顔をしていなかった。

ジョーンズは青ざめていた。ソープは無表情だが、その無表情がいつもより、硬かった。ケニーはコインを握り込んだまま、モニターを睨んでいた。そして、ダリは——窓辺では、なかった。初めて、彼女はモニターの前に立って、ドル円の数字を見つめていた。微動だにせず。

「ダリ」ケニーが低く、言った。「どこで、やる」

わたしはその問いの意味をすぐには、わからなかった。けれど、部屋の空気がその一言で、ぴん、と、張りつめたのは、わかった。

ダリは答えなかった。数字を見ていた。百四十一円台。

百四十一円六十九銭。

それが、その日のいちばん深い、底だった。けれど、もちろん、そのときのわたしたちには、それが、底だとは、わからない。空白には、底がない。まだ、落ちるかもしれない。百四十円。百三十円。──落ちれば、落ちるほど、ダリの建玉はもっと、ふくらむ。もっと、勝てる。

「ダリ」ケニーがもう一度、言った。「欲を出すな、とは、言わん。お前の半年だ。お前が決めろ」

ダリの唇がわずかに動いた。

「利を確定します」

声は静かだった。けれど、その三文字を言うのに彼女が半年、かかったことをわたしは知っていた。

「ここで、ですか」ジョーンズが思わず、言った。「まだ、落ちる、かもしれない。もっと——」

「もっと、落ちるかもしれません」ダリは数字を見たまま、言った。「でも、この崖はもうわたしの崖じゃ、ない。世界中が同じ方向に走り出した。誰でも、見えている。誰でも見えるものに儲けは、残らない。──それにこれだけ、一気に落ちたものは、必ず、跳ね返る。今日のうちに。欲を出して、底を取りに行った者から、その跳ね返りに轢かれる。わたしは底は取りません。割れた、ことだけ、いただきます」

「執行する」ソープが言った。

彼の指が初めて、速く、動いた。電卓ではなく、注文の端末を。空白の板の中で、買い手を探して、デスクの建玉をひとつずつ、利益に変えていく。画面の隅に小さな文字が灯った。〈約定〉。〈約定〉。〈約定〉。

「入った」ソープが淡々と言った。「決めた水準で、ぜんぶ。──利を確定した」

部屋に歓声はなかった。

シャンパンも、ハイタッチも、吠える声も。ただ、ジョーンズが長い、長い、息を吐いた。ケニーが握り込んでいたコインを手のひらの上で、一度、ゆっくりと、転がした。とん。久しぶりにその音が鳴った。

ダリは動かなかった。

モニターの数字を見つめたまま。利を確定した、その数字を。半年、彼女を削り続け、馘首の線のすぐそばまで、追い詰め、それでも、彼女が手放さなかった、その建玉がいま、勝ちに変わった、その数字を。

そして、わたしは見た。

彼女の頰をひとすじ、光るものが、伝うのを。

あの何もかも、見透かしたような、超然とした、早すぎる魔女。二週間、わたしが一度も、表情を崩すのを見たことのない、女。その彼女が勝った、その瞬間に声も立てず、表情も、変えずにただ涙を流していた。

それは、勝利の涙では、なかった。

わたしには、わかった。彼女はいま、勝ちながら、思い出しているのだ。正しさを伝えられなかった、父のことを。正しいタイミングで、正しいことを言って、それでも、救えなかった、その人のことを。──今日、わたしは勝つ。でも、それで、わたしの父が戻るわけじゃ、ない。彼女は夜明け前にそう、言った。半年、待った、正しさの報酬は勝ちと、一緒に救えなかったものの重さを運んでくる。勝てば、勝つほど、救えなかったことが、際立つ。彼女の涙はその重さの名前だった。

ケニーがそっと彼女の肩に手を置いた。

「生きてるな」彼は低く、言った。「それで、いい。今日はそれで、十分だ」

* * *

崖の外側では、世界が終わっていた。

わたしは自分のスマートフォンを開いた。開いて、後悔した。

SNSは、悲鳴で、埋まっていた。〈握力、限界です〉〈含み益、ぜんぶ、溶けた〉〈新NISA、今年から、始めたのに〉〈マイナス、二百万。もう、無理〉〈狼狽売り、してしまった……〉〈退場、します。さようなら〉。「令和のブラックマンデー」という、言葉がその日、世界中で、最も、多く、呼ばれた、言葉になっていた。

今年から、始めた人たち。本物の暴落を見たことのなかった人たち。気絶しとけ、と笑っていた人たち。彼らの悲鳴が滝のように流れていた。

あとで、わたしは知ることになる。その日の午後、市場から、買い手が消えたのは、偶然では、なかった。下げが、人々を怯えさせ、怯えが、人々に売らせ、売りが、また買い手を消した。誰かが、後にそれをこう、分析した。──流動性が急速に縮小し、売りが、売りを呼ぶ、状況が生まれた。ソープの言った、空白。それは、機械の影だけでなく、何百万もの生身の怯えで、できていた。

桑原さんの投稿は午前中で、止まっていた。

最後の投稿は九時台。〈下げてますね。でも、押し目。むしろ、買い増しのチャンス。先生も、そう言ってます〉。それきり、彼のアカウントは沈黙していた。投稿が止まった、という、その沈黙が何より、雄弁だった。わたしは戦時室の勝っているモニターと、手の中の止まった投稿のあいだで、引き裂かれそうになった。

この部屋が確定した利益のいくらかは。

ブリンの声が蘇った。あの配信を見てる人たちの財布から、来てるんですよ。──否定、できなかった。デスクが買い戻した、その買いの向こう側で、誰かが、売っていた。売らされていた。その誰かの中に桑原さんが、いたかもしれない。この勝ちは、清潔では、ない。ダリの涙が清潔でなかったように。

* * *

その日、ヘリオスからも、悲鳴が聞こえた。

昼過ぎ、わたしのスマートフォンが震えた。シームからのメッセージだった。なぜ、わたしに送ってきたのか、わからない。たぶん、誰かに言いたかったのだ。

〈ブリンさんのデスク、金曜に上げたレバレッジが月曜の踏み上げで、やられました。実損です。僕は止めようとした。最悪を考えてください、って。でも、ブリンさんは、笑って、これも、ノイズだ、すぐ拾い直す、って〉

そして、少し、間を置いて、もう一通。

〈実際、ブリンさんは、拾い直してます。いま、この跳ね返りで。冷たく。傷一つ、ない、みたいな顔で。──あの人は退場、しないんです。絶対に。それが、僕には、いちばんこわい〉

わたしはその二通を読んで、奇妙な、戦慄を覚えた。ブリンは被弾した。けれど、退場しない。彼は自分の痛みすら、ノイズだと言い切って、冷たく、拾い直す。悔いのない、頂点。デスクが勝ったのに敵は倒れていない。これが、この世界のいちばん苦い、真実だった。倒すべき悪は倒れない。むしろ、傷一つ、なく、立っている。

* * *

夜になった。

日本の崖が海を渡って、アメリカに着いた。海の向こうの恐怖の目盛りが、跳ね上がった。プレマーケットで、一時、六十五。リーマンのときに並ぶ、数字。世界中が同じ、崖を転がっていた。

そして、その世界が崩れていく、画面の片隅で。

海の向こうの大統領選を戦う、ひとりの候補が自分のSNSにこう、書いたと報じられた。──株式市場が暴落している。だから、言っただろう。すべて、無能な、指導者のせいだ。これは、二〇二四年の大恐慌だ。

部屋の誰かが、そのニュースの見出しを一瞥した。たぶん、ケニーだった。彼はふん、と、鼻で、笑って、すぐに目をモニターに戻した。

「こっちは」彼は言った。「数字で、忙しい」

崖は終わりに近づいていた。底をつけた相場は跳ね返り始めた。百四十一円台が百四十二円、百四十三円。利を確定した、デスクはその跳ね返りにもう乗っていない。底を取りに欲を出した者だけが、その激しい、戻りに轢かれていた。ドル円は結局、その日、百四十五円台まで、戻して、引けた。

数字の上では、何も、なかったかのような、引け値だった。けれど、その日、市場は戦後最大の傷を負っていた。

* * *

その日の夜。誰もいなくなった、戦時室で、わたしはダリと、二人だった。

彼女はもう泣いていなかった。窓辺に戻って、夜景を見ていた。半年の賭けは、報われた。年初来の数字はたぶん馘首の線から、ずっと遠くへ行った。目標にも、近づいたかもしれない。彼女は生き残った。

「終わったんですね」わたしは言った。

ダリは首を横に振った。

「まだです」彼女は言った。静かに。「相場は明日も、開く。一日で、これだけ、落ちたものは、明日、人間が戻ってきて、買い直す。たぶん、大きく、戻ります。数字の上では、悪夢は終わったように見えるでしょう」

彼女は窓の外を見たまま、続けた。

「でも、問題は」その声がわずかに沈んだ。「明日、戻ってこない人がいる、ということです。市場は戻る。でも、今日、退場した人は戻らない。今日、消えた人は明日の戻りには、いない。──数字は回復します。人は回復しない。それが、いつもいちばん見落とされることです」

わたしは手の中のスマートフォンを見た。桑原さんのアカウントはまだ沈黙していた。

明日、市場は戻る。けれど、桑原さんは、戻ってくるだろうか。

わたしはその夜、初めて、自分が何を書くべきなのかが、少しだけ、わかった気がした。それは、暴落の大きさでも、デスクの勝ちでも、なかった。戻る、数字と、戻らない、人のあいだのその深い、隙間のことだった。

第13節|タイムスタンプ

崖が底をついて、相場が跳ね返り始めた、その同じ夜。

わたしはもう一度、あの「無敗」の配信者のライブを開いた。開かずには、いられなかった。彼がいま、どうしているのかを見届けることが、わたしの取材だと、自分に言い聞かせて。けれど、本当はそれは、取材では、なかった。わたしは父の最期を見られなかった。だから、せめて、画面の向こうの誰かの最期を見ようとしていた。それが、弔いになる、とでも、思っていたのか。わからない。

ライブはまだ続いていた。

数日前まで、札束を背負って、笑っていた、あの男が。画面の中で、汗だくになっていた。背後のいつもの高級そうな、調度品は変わらない。けれど、その顔から、笑みが、消えていた。〈大丈夫です。大丈夫。これは、一時的な、調整です。ここから、戻ります。むしろ、いまが、最大の買い増しのチャンス。僕を信じてください。勝率、一〇〇パーセントの僕を〉。

声が震えていた。

コメント欄を流れる、文字が変わっていた。数日前の感謝と、強欲はもうなかった。〈先生、ロスカットされました〉〈追証が払えません〉〈どうすれば〉〈嘘つき〉〈金返せ〉。罵りと、悲鳴が半分ずつ。そして、その合間にまだすがる声が混じっていた。〈先生だけが、頼りです〉〈次で、取り返せますよね〉。

次で、取り返す。

その夜、午後十時を回った頃。配信がふいに途切れた。

画面が暗転した。再接続を待っても、もう戻らなかった。アカウントのページに飛ぶと、過去の何百もの「今日も勝ちました」の動画が一夜にして、すべて、消えていた。残っていたのは、空っぽのページと、もう二度と、更新されない、という、予感だけだった。

彼は消えた。

数日前、ジョーンズがその男を三秒だけ見て、言った言葉をわたしは思い出した。半年の連勝は実力の証明には、ならない。問題は二つ。負けた回を消していること。そして、サイズ。あの建て方なら、一度の大きな波で、退場する。──ジョーンズは当てたのでは、なかった。彼はただ計算していた。そして、計算は外れなかった。

* * *

その夜、戦時室で、わたしはその消えた配信のことを口にした。

「消えました」わたしは言った。「あの無敗の人。アカウントごと、消えました」

ジョーンズはモニターから、目を上げなかった。ソープも、電卓を見たままだった。誰も、勝ち誇らなかった。誰も、「だから言ったろう」とは、言わなかった。沈黙があった。

やがて、ソープがぽつりと言った。前に一度、言ったのと、同じ言葉を。けれど、今度はずっと静かに。

「数日前、私は彼のことをもう死んでいると言った。タイムスタンプを知らないだけだ、と」電卓を見たまま。「今夜、彼はそのタイムスタンプを知った。それだけのことだ。──私が当てたわけじゃ、ない。彼が最初から、そこに立っていた。私はただそれを読んだだけだ。喜ぶ、ようなことじゃ、ない」

「あなたたちには」わたしは声を抑えながら、言った。けれど、抑えきれなかった。「画面の向こうの人間が見えないんですか。あの配信を信じて、追証で、消えた、何百人もの生活が。あなたたちが、ノイズと、呼ぶものは、誰かの——」

「見えてる」

遮ったのは、ケニーだった。コインを止めて。その声はいつもより、ずっと低く、そして、疲れていた。

「全部、見えてるよ、お嬢ちゃん」ケニーは言った。「見えてて、止められない。それが、いちばんこたえるんだ。──だがな。一つだけ、言っておく。あの何百人を本当に食ったのは、相場じゃ、ない。あの笑ってた、配信者でも、ない。あいつもまた、もっと、上の誰かに食われた、駒だ。本当に食ってるのは、構造だ。勝率一〇〇パーセントの嘘を月三万で、売れる、その仕組み全体だ。──そいつは、誰か一人を潰しても、消えない。次の笑顔が明日には、また湧く。潰しても、湧く。それが、配管なんだ」

潰しても、湧く。

わたしがこの夏、いちばん聞きたくなくて、いちばん聞くべきだった言葉をこの皺だらけの年寄りが、いちばん静かに言った。

* * *

わたしは桑原さんのことを考えていた。

桑原さんのアカウントは午前中の〈押し目です〉を最後に止まったままだった。わたしは何度も、メッセージを打ちかけて、消した。逃げて。もう、やめて。それは、取材者の一線を越える言葉だった。けれど、一線を守って、何になる。守って、またひとり、見送るのか。

わたしは震える指で、メッセージを送った。〈桑原さん。大丈夫ですか。無理だけは、しないでください〉。

既読はつかなかった。

翌朝も、つかなかった。その次の日も。

数日後、桑原さんのアカウントは削除されていた。投稿も、プロフィールも、わたしと、交わした、メッセージの相手の欄ごと、消えていた。彼が生きているのか、どこかで、うずくまっているのか、わたしには、知る、すべが、なかった。残ったのは、わたしの取材ノートのいちばん上の行に書かれた、「桑原」という、二文字だけ、だった。

父と、同じだった。

消息不明。生きているのか、冷たくなっているのか、わからない。最後の言葉は「次で、取り返す」。──三年と、四か月、わたしは父の消息を追ってきた。そして、この夏、わたしはまたひとり、同じように消える人をすぐ隣で、見送った。真実を渡そうとした。逃げて、と、書いた。それでも、間に合わなかった。

松子に報告したとき、編集長は長いこと、黙っていた。それから、低く、言った。

「あんたは、よく、やった」

「救えませんでした」わたしは言った。「真実を渡したのに。逃げて、と、書いたのに」

松子は老眼鏡を外して、目頭を押さえた。あの鉄のような人が。

「真実で、人は救えない」彼女は言った。「ときどき、な。──だが、救えないからって、真実を書かない理由には、ならない。書いた真実はその人を救えなくても、次の誰かのところへ行く。間に合う、誰かのところへ。あんたが、いま、書こうとしてるものは、桑原さんには、間に合わなかった。だが、まだ崖の手前にいる、見ず知らずの誰かには、間に合うかもしれない。──それが、わたしたちの仕事だ。遅れて、届く、手紙を書く仕事だ」

わたしは初めて、松子の机の額入りのゲラの意味を知った気がした。あの人にも、間に合わなかった、誰かが、いる。だから、あの人はいまも、遅れて届く手紙を書き続けている。

* * *

その同じ数日のあいだ。

町外れの自動車修理工場の二階で。わたしの叔父、小宮さんは、生きていた。

暴落の月曜。叔父はいつものように客の車の下に潜っていた。ザラ場は見ない。夜、一日が終わって、確定した、一本のローソク足だけを見る。その夜、彼はいつもより、長く、その長い、下ヒゲのローソク足を見ていた。百四十一円台まで、突っ込んで、百四十五円に戻った、その一日を。

彼のわずかな、持ち高は無傷だった。

決めた額しか、賭けていなかった。生活費にも、工具の金にも、手をつけていなかった。崖が来ても、彼の掟は彼を退場させなかった。彼は缶ビールを一本だけ、開けて、妻の写真に報告した。「今日のは、すごかったぞ。でも、おれは生きてる」。小さく、頷いて。灯りを消した。

彼は知らなかった。同じ崖の反対側で、姪が追いかけていた、桑原という男がその同じ日に消えたことを。そして、その姪が自分のことを——慎ましく、生き延びている、たった一人の身内のことを——いまも、何ひとつ、知らずに「為替は博打だ」と信じ続けていることを。

希望と、喪失が。同じ崖の両側に立っていた。生き残った、叔父と、消えた、桑原さんが。読者である、あなただけが、その両方を見ている。姪である、わたしは片方しか、知らないままで。

* * *

その夜、わたしは戦時室で、四人を見回した。

怒りは、もうなかった。代わりにわたしの中に一つの問いが、残っていた。それは、ブリンの冷たい論法でも、なく、デスクの温かい言い訳でも、なかった。もっと、単純で、もっと答えのない問いだった。

「あなたたちは」わたしは言った。静かに。「見えていて。それでも、止めないんですね」

四人は答えなかった。

ダリが窓の外を見た。ジョーンズの左手が消しゴムを止めた。ソープが腕時計を机の縁と、平行に直した。そして、ケニーがコインを握り込んだ。

答えの代わりにケニーが低く、言った。

「明日も、相場は開く」彼は言った。「戻るぞ。大きく、戻る。皆がもう終わったと思う。──だが、本当の問いは、そこからだ。戻った数字の裏で、誰が戻ってこないか。あんたが、見るべきものは、明日の戻りの中にある」

第14節|反発という名の麻酔

翌朝、相場はケニーの言ったとおり、戻ってきた。

大きく、だった。火曜、八月六日。日本の市場が開くと、株価指数は跳ね上がった。前の日、史上最大の下げ幅を記録した、その指数が今度は史上最大の上げ幅で、跳ね返した。三千二百を超える、上げ。一日で。前日の悪夢がまるでなかったかのように。海の向こうの景況感が思ったほど、悪くなかった、という、たった一つの数字が過度な、不安を打ち消した、と、新聞は書いた。

ドル円も、戻した。百四十一円台まで、突っ込んだ相場が百四十六円台へ。

SNSは、もう一度、沸騰していた。

〈ほら、やっぱり、押し目だった!〉〈昨日、狼狽売りした人、ご愁傷さま〉〈握力、勝利!〉〈耐えた者だけが、報われる〉〈新NISAは、やっぱり、ほったらかしが、正義〉。昨日、退場します、と、書いていた、アカウントのいくつかは、もう威勢を取り戻していた。昨日、消えた、アカウントのことは、誰も、話していなかった。戻ってきた、数字のまぶしさが、戻ってこなかった、人の影を塗り潰していた。

わたしはその明るい合唱を見ながら、ぞっとした。

たった、一日で。これだけ、大きく、戻ると、人は昨日の崖を忘れる。忘れて、また同じ、船の同じ側に駆け戻る。やっぱり、下がったら、買い。やっぱり、押し目。──暴落は彼らに何も、教えなかった。むしろ、間違った、教訓を植えつけた。耐えれば、報われる。ナンピンは正しかった。その教訓は今回はたまたま、当たった。けれど、次の崖が戻ってこない崖だったら。

* * *

戦時室は不思議なほど、静かだった。

あれほどの暴落と、反発の二日間を経たのに四人は淡々と、していた。デスクは暴落の底で、利を確定していた。だから、この大きな反発にもう乗っていない。彼らは、戻りを取りに行かなかった。ポジションを軽いまま、保って、ただ相場が鎮まっていくのを見ていた。

「乗らないんですか」わたしは訊いた。「こんなに戻ってるのに」

「底で、利を確定した」ソープが言った。「戻りは、もう私たちのものじゃ、ない。取りに行けば、それは、欲だ。昨日、欲を出さなかったから、今日、生きてる。今日、欲を出したら、明日、死ぬかもしれない。──同じことだ」

ダリは窓辺に戻っていた。あの昨日の涙はもう跡形も、なかった。半年の賭けは、報われた。年初来の数字は馘首の線から、ずっと遠くへ行った。目標にも、近づいたはずだった。彼女は勝った。生き残った。

なのにその横顔は晴れていなかった。

「ダリさん」わたしは隣に立って、言った。「勝ったんですよね。半年、待って。なのにどうして、そんな顔を」

ダリはしばらく黙っていた。それから、低く、言った。

「早すぎることのコストは」彼女は言った。「当たっても、消えないんです」

「コスト?」

「半年です」ダリは窓の外を見たまま。「わたしは半年、間違い続けました。正しかったのに早すぎたから、半年、負け続けた。その半年のあいだ、わたしは毎日、自分を疑いました。本当に正しいのか。ただの強情なのか。馘首の線が近づくたびに心臓が削れました。──その削れた半年は今日、勝っても、戻ってこない。賭けは、報われた。でも、待っているあいだにすり減った、わたし自身は報われない。早すぎる、というのは、そういうことです。当たった、その日にも、ちゃんと、傷だけが、残る」

わたしは彼女の横顔を見た。早すぎる魔女。当てても、笑わない女。その笑わなさの理由がわたしには、ようやく、少しだけ、わかった気がした。彼女は勝つたびに勝つまでにすり減った、自分の半年を数えているのだ。

* * *

翌日、八月七日。

相場の麻酔が効いた。

その日、日本の中央銀行の副総裁が北の街での講演で、こう、述べたと報じられた。──金融資本市場が不安定な状況で、利上げをすることは、ない。先週からの急な変動は円安方向に大きく、積み上がっていた、ポジションの巻き戻しだ、と。

市場はその一言で、息を吹き返した。利上げへの不安が後退し、ドル円はさらに戻して、百四十七円台を回復した。株も、落ち着いた。崖は過去になった。

「来ましたね」ダリがそのニュースの見出しを見て、言った。「助けが」

「助かったんですね」わたしは言った。「中央銀行が落ち着かせてくれた」

ダリは首を横に振った。

「助けに来たのは」彼女は言った。「相場じゃ、ありません。中央銀行です。──市場が自分の重さで、つまずいて、転んだ。それを見て、中央銀行が駆け寄って、抱き起こした。利上げは、しない、と。怖がらなくて、いい、と。市場は安心して、また立ち上がった。めでたし、めでたし。──でも、七瀬さん。それは、市場が自分で、立ち直ったんじゃ、ない。膝をついたのは、中央銀行のほうです」

「それの何がいけないんですか」

「いけなくは、ありません」ダリは言った。「今日はそれで、いい。でも、それは、無料じゃ、ない。中央銀行が市場の機嫌を取る。市場が荒れたら、引き締めを緩める。それを市場は学習します。荒れれば、助けてくれる、と。──そうやって、市場はだんだん、甘やかされて、無防備になっていく。今日、配られた、安心はいつか、別の請求書になって、戻ってきます。それが、いつ、いくらになるかは、まだ誰にも、わからない。でも、必ず、戻ってきます。タダの安心なんて、相場には、一つも、ないんです」

別の請求書。

わたしはその言葉を手帳に書きつけた。意味はまだ半分しか、わからなかった。けれど、その夏のあと、何度も、わたしはこの言葉を思い出すことになる。市場が荒れるたびに誰かが、駆け寄って、抱き起こす。そのたびに請求書は少しずつ、大きくなっていく。──けれど、それは、まだ先の話だ。

* * *

その金曜の夜、わたしは久しぶりに藤森さんの店にいた。

暴落から、数日。店には、いつものぬくもりが、戻っていた。カウンターの端で、クマノフがもうできあがっていた。

「いや〜、聞いてくれよ、七瀬ちゃん!」クマノフが赤ワインを呷って、笑った。「俺な、五日のあの底でな、もうダメだと思って、ぜんぶ、投げたんだよ。底で、投げた。そんでな、六日の朝、もう戻らねえと思って、いちばん高いところで、買い直した!」

「……才能だな」チカノフが白ワインを舐めて、ぼそりと言った。「逆の才能が」

「うるせえ!」

わたしは思わず、笑ってしまった。笑ってから、その笑いに少しだけ、罪悪感を覚えた。桑原さんは、もういないのに。けれど、藤森さんが、わたしのグラスにワインを注ぎながら、静かに言った。

「七瀬さん。笑って、いいんですよ」彼はにっこり、笑った。けれど、その目は少しだけ、寂しそうだった。「あの暴落で、消えた人のことは、わたしも、聞きました。──でもね。生きてる者が笑うのをやめたら、消えた人も、浮かばれない。クマノフさんの馬鹿な、損も、こうやって、笑い話になる。笑い話にできる損で、止めておく。それが、退場しない、っていう、ことなんです。あの二人が十年、ここにいる、理由ですよ」

わたしはグラスを傾けた。

クマノフの馬鹿な損は笑い話になった。桑原さんの損はならなかった。その差がどこにあったのか。藤森さんの言う、笑い話にできる損で、止めておく。小宮さんの決めた額しか、賭けない。──同じ、ことを言っていた。生き残る、というのは、勝つことでは、なく、笑い話にできる場所で、止まる、ということ。桑原さんは、そこで、止まれなかった。父も、止まれなかった。

ダリはその夜も、来なかった。

「魔女様は」ケニーがハウスワインを飲みながら、言った。「勝ったときほど、ひとりになるんだ。あいつにとって、勝ちは、祝うもんじゃ、ない。数えるもんなんだ。──さあ、飲め。今日は生きてる。それで、十分だ」

帰り道、わたしは空を見上げた。夏の夜だった。何事も、なかったかのように星が出ていた。市場は鎮まった。数字は戻った。世界はもう暴落のことを忘れ始めていた。

けれど、桑原さんは、戻ってこなかった。

戻る、数字と、戻らない、人。その隙間にわたしの書くべきものが、あった。

第15節|あんたは、何が知りたいんだ

暴落から、一週間が過ぎた。

相場はすっかり、鎮まっていた。ドル円は百四十七円台で、行きつ戻りつ、していた。日経平均も、半分以上、戻していた。新聞の見出しから、「暴落」の二文字が消えていった。世界はもう別の話題を探し始めていた。たった、一週間で。あれほどの崖がまるで季節外れの台風のように過ぎ去って、忘れられていった。

戦時室も、いつもの静けさに戻っていた。ジョーンズが夜明け前から、計算している。ソープが検算する。ダリは窓を見ている。ケニーがコインを転がしている。とん、とん、とん。何事も、なかったかのように。

わたしはその隅のパイプ椅子で、記事を書こうと、していた。

けれど、書けなかった。何を書けばいいのかは、わかっていた。戻る、数字と、戻らない、人の隙間のこと。けれど、そのいちばん大事な、一行がどうしても、書けなかった。書こうとすると、桑原さんの削除された、アカウントが父の二十二秒がダリの涙がいっぺんに押し寄せて、指が止まった。

その夜、ほかの三人が帰ったあと。ケニーがわたしの前の椅子に腰を下ろした。

「書けないか」彼は言った。

「……はい」

ケニーはしばらくコインを転がしていた。それから、止めて、わたしをまっすぐ、見た。最初にこの部屋に来た日と、同じ目で。皺の奥の深い目で。

「最初の日に訊いたよな」彼は言った。「で、あんた、本当は何が知りたいんだ、って。──あんた、あのとき、答えなかった。いまも、答えられるか、どうか、わからん。だが、もう一度だけ、訊く。あんたは、本当は何が知りたくて、この部屋に来た」

わたしは長いこと、黙っていた。

それから、初めて、この部屋で、その話をした。父のことを。配信の中の「先生」のことを。月に三万円のサロンのことを。痩せていく、通帳のことを。廊下で、背中を丸めて、すみません、と、繰り返した、父のことを。自己破産。離婚。消えた父。二十二秒の留守電。次で、取り返す。──三年と、四か月、わたしが誰にも、まともに話さなかった、そのぜんぶを。

四人の誰にも、話していなかった。なのにダリは最初の日から、知っていた。わたしの目に書いてあった、と。

ケニーは黙って、聞いていた。最後まで。コインも、回さずに。

話し終えたとき、わたしは自分が泣いていることに気づいた。三年と、四か月、一度も、流さなかった、涙だった。

* * *

ケニーはすぐには、何も、言わなかった。

長い、沈黙のあと。彼は低く、言った。

「あんたの親父を食った、その配信の連中のことなら」彼は言った。「俺はたぶん誰より、よく、知ってる」

わたしは顔を上げた。

ケニーの目に一瞬、何か、わたしの知らない、影がよぎった。それは、ダリの悔いとも、ソープの墓標とも、違う、もっと、複雑な、何かだった。罪悪感に似ていた。けれど、罪悪感、とだけ、呼ぶには、何か、もっと、深い、ものだった。

「どうして」わたしは訊いた。「どうして、誰より、よく、知ってるんですか」

ケニーは口を開きかけた。けれど、言わなかった。代わりにふっと、息を吐いて、またコインを手のひらに載せた。

「……それは、いつか、話す」彼は言った。「いまは、まだだ。──ただ、一つだけ、言える。あんたが、憎んでる、あの構造。あれは、外から、来た、誰かじゃ、ない。あれは、俺たちのすぐ隣にある。ときどき、鏡の中にも、いる。それを知ったとき、あんたの憎しみは、行き場をなくす。宛先がなくなる。──そのとき、あんたが、どうするのか。それを俺は見てみたい」

わたしはその言葉の意味をつかみ損ねた。けれど、ケニーが何か、自分自身のことを言いかけて、やめたことだけは、わかった。この皺だらけの温かい男にも、まだわたしの知らない、過去があった。いつか、それが、わたしと、この部屋の絆を揺さぶることになる。──そのときは、まだ来ていない。

* * *

その夜、わたしは自分がこの夏で、何を失い、何を得たのかを考えていた。

わたしは一枚の岩を握りしめて、この部屋に来た。為替は博打だ。それは、父を殺した。だから、為替に関わる、すべての人間は父を殺した側か、その共犯だ。──白か、黒か。憎むべきか、否か。わたしはそのたった一枚の岩で、世界を測ろうと、していた。

その岩はこの夏、砕けた。

博打と、規律は別物だった。同じ、為替を見て、片方は有り金を賭けて、消え、片方は最悪を先に払って、生き残る。父のいた世界と、この部屋は同じ、相場を見ていながら、まるで逆のことをしていた。為替そのものが、父を殺したのでは、なかった。

けれど——だからといって、わたしの憎しみが、消えたわけでは、なかった。

ここが、大事なところだ。わたしは改心したのでは、ない。この部屋を好きになって、為替を許して、めでたし、めでたし、では、ない。そんなきれいな話では、なかった。父を呑んだ、あの「勝てる」の嘘はいまも、画面の中で、笑っている。潰しても、湧く。桑原さんを呑んで、また別の桑原さんを探している。それは、まだそこにある。わたしの憎しみも、まだここにある。

ただ、その憎しみの宛先が変わった。

わたしが憎むべきは、為替では、なかった。規律ある、この部屋でも、なかった。わたしが憎むべきは——いや、憎む、という言葉がもう正しいのかも、わからない。わたしが向き合うべきは、人を博打に変える、あの構造だった。勝率一〇〇パーセントの嘘を月三万で、売れる、あの仕組み。潰しても、湧く、あの配管。──それは、白でも、黒でもなく、もっと、灰色で、もっと、根が深かった。

わたしの信念はひっくり返ったのでは、ない。広がったのだ。

* * *

翌朝、わたしは編集部で、松子に向き合った。

「書けそうか」松子は校正刷りから、目を上げずに言った。

「書きます」わたしは言った。「戻る、数字と、戻らない、人のことを。暴落の大きさじゃ、なくて。誰が生き残って、誰が消えたのか。その差がどこにあったのかを。──遅れて、届く、手紙を書きます」

松子の赤ペンが止まった。彼女は初めて、顔を上げて、わたしを見た。そして、わずかに口の端を上げた。それから、その笑みをすっと、消して、言った。

「いいだろう」松子は言った。「だが、これで、終わりじゃ、ないぞ」

「終わり?」

「次は選挙だ」松子は言った。「秋にアメリカが大統領を選ぶ。為替ってのはな、七瀬。金利でも、景気でも、動くが、いちばん大きく、動くのは——政治だ。あの国が誰を選ぶか。それで、世界中の金の流れが、変わる。あんたが、夏に見たものは、ほんの序章だ。本番はこれからだ。──あの部屋に通い続けろ。あんたの取材はまだ始まったばかりだ」

わたしは頷いた。

その日の帰り、わたしは取材ノートを開いた。いちばん上の行に「桑原」という、二文字が残っていた。わたしはそれを消さなかった。閉じも、しなかった。その二文字を残したまま、わたしは新しい、ページをめくった。

まだ、終わっていない。戻る、数字の裏で、誰が戻ってこないのか。潰しても、湧く、あの構造の本当の顔は何なのか。ケニーが言いかけて、やめた、あの過去は何なのか。そして、わたしは最後にどこに立つのか。

夏が終わろうと、していた。

一ドルが百四十円台で、ひと息ついた、二〇二四年の夏。世界は暴落を忘れ、また次の嘘を探し始めていた。船は新しい、片側へ傾き始めていた。そして、わたしはその船をもう外からでは、なく、いちばん内側のいちばん冷たい部屋から、見つめていた。

憎しみを鞄に詰めて、敵地に乗り込んだ、新卒二年目のわたしはもういなかった。

代わりにここにいるのは。まだ、宛先の定まらない、問いを抱えて。それでも、遅れて届く手紙を書くと、決めた、ひとりの記者だった。

秋が来る。選挙が来る。

そして、為替はまた動き出す。

第1部 完 — つづく

戻る数字の裏で、誰が戻ってこないのか。潰しても湧く「構造」の本当の顔とは。ケニーが言いかけてやめた過去とは——。憎しみを鞄に詰めて敵地に乗り込んだ記者は、もういない。夏が終わり、秋が来る。そして海の向こうで、ひとつの選挙が、相場に新しい熱を持ち込む。

第1部「令和のブラックマンデー」完。第2部「選ばれる国」(第三弾・2024年秋の選挙〜トランプトレード)は公開中。
→ 第三弾「選ばれる国」を読む / 第一弾「七月の攻防」 / 目次

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